徳川慶喜が好んだ料理は?好物だったパンは?

大政奉還という歴史の転換点となる判断を下した江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜の幕臣であった渋沢栄一が、幕末から明治にかけての慶喜の姿を「徳川慶喜公伝」と「昔夢会筆記」にまとめられています。

徳川慶喜が将軍となり、弟の昭武をパリ万博に派遣する際に渋沢栄一が随行員の一人として渡欧して、海外の食習慣などを慶喜に伝えており、その影響のためか慶喜の食習慣には、現代的な要素が感じられます。

大阪城での英蘭仏米の4カ国の代表に、徳川慶喜がフランス料理のフルコースを振る舞った記録も残されており、イギリス公使パークスなどとの交流から、パンやコーヒーといったものにも当時としては珍しく馴染みがあったと考えられます。

江戸時代の武家出身でありながら、蟄居生活では自らも料理をしたとされる徳川慶喜の幕末から明治初期の食生活などを紹介します。

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徳川慶喜の食生活は?

徳川慶喜の将軍職失職後の食生活については、前述の渋沢栄一が記した記録や、ひ孫にあたる慶朝氏によれば、べったら漬けが好物で、富貴豆も好きだったようです。

また、隠居後に自宅からみえるパン屋に興味を示して、女中に玄米パンを買いに行かせたという逸話も残っています。

晩年には、硬い食べ物を避け、塩分を控えるために好きなべったら漬けを食べる量を減らし、和食の淡白な献立を選んでいたと言われます。

76歳という当時としては長寿にあたる年齢まで健康を維持した徳川慶喜は、歴代の将軍とは違い、政治的な野心に固執せず、多趣味で人生を楽しみながら、消化に良い食べ物を選びながら塩分摂取量に気をつけた料理を選び、日本型の食生活を送っています。

徳川慶喜と木村屋のアンパンとのかかわり?

明治天皇に初めて酒種桜あんぱんを献上した木村屋初代当主安兵衛は、明治維新前、徳川慶喜のお供でしばしば水戸藩へ出かけており、そこで山岡鉄舟と出会っています。

その後、西洋から入ってきたパンとは違い、酒種を使った生地であんを包み焼きあげたあんぱんを完成させ、山岡鉄舟と徳川慶喜の太鼓判から、明治天皇への献上につながっています。

徳川慶喜は、晩年にも木村屋のあんぱんを好んで食したといわれ、江戸時代から明治初期とは思えない西洋風の食生活と料理にも抵抗なく対応できた人物のようです。

また、江戸時代の終盤では獣肉の料理を公人が食べていませんが、徳川慶喜は豚肉も好んで食べていて、現代では当たり前のビタミンやミネラルを自然に摂取しています。

徳川慶喜の好奇心は、料理やパンなどにも?

30代前半に歴史を転換させる大政奉還という決断を下した徳川慶喜は、歴代の将軍たちとは違い、政治的な野心に固執せず、趣味や料理など自分の好奇心を満たして人生を楽しんでいます。

徳川慶喜の食生活には、当時としては珍しいパンやコーヒー、豚肉などを好んで食したといわれます。

側近にいた渋沢栄一やひ孫の慶朝氏によれば、べったら漬けや富貴豆が好きだった徳川慶喜の晩年には、硬い食べ物を避け、塩分を控えた料理を選んでいたらしく、日本型の食生活を送っています。

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