15人いる徳川幕府の歴代将軍の中で、唯一幕末の姿が写真として残されている徳川慶喜は、フランス軍服を着ています。
鎖国体制を継続した江戸時代に、ペリーの来航により日米通商条約の締結がなされたとはいえ、外国の軍服を着て写真を撮った徳川慶喜の姿には、違和感を感じるかもしれません。
15代将軍になる前に徳川家茂の将軍職補佐役を務めていた徳川慶喜は、朝廷との交渉役を務め、フランスをはじめとした諸外国の動向にも接しています。
徳川慶喜は、フランス公使レオン・ロッシュを通じてヨーロッパの政治状況や海外の情勢を得ていたと考えられ、フランス軍服もフランスとの緊密な関係があります。
徳川慶喜とフランス公使ロッシュとの関わり
江戸幕府とフランスとの関わりは、14代将軍家持の時代に、フランスの国内産業の絹の原料となる蚕が病気となり死滅した際、蚕の卵を産み付けた蚕種をフランスへ送り、フランスの絹産業を救ったことがあります。
フランスは、蚕種を送ってくれた家茂への恩返しとして、ナポレオン三世が軍馬を徳川慶喜へ送った経緯もあり、フランスと徳川幕府には関係性を有していたわけです。
そのため、フランス駐日大使としてロッシュが着任すると、ロッシュは徳川慶喜に対してヨーロッパの政治状況などをレクチャーし、政策立案のための助言を与えています。
徳川慶喜が慶応の改革として行なった五局体制の政治組織確立といった組織改革や、財政改革、陸軍の整備計画など、当時のフランスやヨーロッパの状況を模した政策からもフランス公使のロッシュの影響がわかります。
徳川慶喜に送られたフランス軍服は?
幕末の幕政運営改革に思案する徳川慶喜が、フランス公使ロッシュの助言によって近代国家体制の素地を作ろうとした形跡が見られますが、フランスにとっても日本を植民地化する計画を進めていたと考えられます。
徳川慶喜とフランスの間には、多額の借款契約が結ばれており、それによってフランスからの武器購入などが可能になる反面、幕府の年貢徴収の制度をさまざまな徴税体制へ変更せねばならず、フランスにとっては戊辰戦争の動向をみていたと考えられます。
徳川幕府とフランスの関係には、それぞれの信頼関係が構築されたものではなく、徳川慶喜の恩返しを期待した外交政策だったと思われ、慶喜が写真で着ているフランス軍服もナポレオン三世が送ったものです。
このフランス軍服にも、ナポレオン三世が日本での利益を獲得するためのプレゼントだったと思われます。
幕末の徳川慶喜のフランス軍服姿の写真には?
幕末の徳川慶喜のフランス軍服姿の写真には、当時の幕府とフランスの関係性を理解するヒントが隠されています。
フランスが混乱する日本の徳川幕府を公使ロッシュを通じて徳川慶喜に政策や政治に関する助言を与え、フランスとの信頼関係を構築したうえで、武器や兵器の供給を借款契約に基づいて可能にし、国内の混乱に乗じて植民地化する計画を立てていたと考えられます。
徳川慶喜にとっても、近代国家への転換をはかる必要性から、フランス公使ロッシュの助言を受け入れたと考えられ、持ちつ持たれつの関係が成り立っていたと想像できます。
徳川慶喜のフランス軍服での写真には、幕末の混乱した幕府の状況が映し出されているのかもしれません。