徳川家慶の生涯最終盤でのペリーとの関わり

長く続いた徳川幕府の転機となるキッカケとなった浦賀沖に現れたペリーの4隻の黒船は、12代将軍徳川家慶のときです。

しかしながら、ペリーの黒船は幕末の重要な史実として歴史の教科書にも登場しますが、徳川家慶の扱いはそれほどでもないのには、ペリーの来航から三週間後に急逝したためですが、家慶の時代には黒船来航をはじめとして、天保の改革や蛮社の獄が起きたりと、重大なことが起きた時代です。

徳川家慶にそれほどの注目が集まらなかった理由には、家慶の父である11代将軍徳川家斉と息子である13代将軍徳川家定の存在のためと言えます。

徳川幕府が大政奉還へ向かうキッカケとなったペリー来航と、その時の将軍だった徳川家慶について紹介します。

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ペリーの来航と徳川家慶の状況は?

12代将軍となった徳川家慶は、父家斉の大御所としての支配が長く続いたため、家慶単独での政治ができるようになったのは50歳近くになってのことです。

徳川幕府の威信が失墜を始め、尊王攘夷論の台頭による武力倒幕派の動きが高まりを見せ始めるきっかけとなるペリーの浦賀への来航が1853年の7月8日で、徳川家慶が亡くなったのが、1853年の7月27日ですから、黒船騒動から約3週間しか存命していません。

そのため、黒船騒動の対応にあたることができず、歴史の教科書でも、扱いが薄いものになっていますが、父家斉の大御所としての影響力を受けながら行った天保の改革や、蛮社の獄で高野長英や渡辺崋山を弾圧するなど、激動の時期を過ごしています。

しかしながら、時系列からもわかるように、ペリーの開国要求に対する仕事は、幕閣があたったことがわかります。

徳川家慶の残した功績は?

オットセイ将軍と揶揄された11代将軍徳川家斉が大御所として実権を振るったため、その指示に逆らえない12代将軍徳川家慶は、家斉のいいなりで「そうせい」とばかりだったため、「そうせい様」などと家臣たちから言われています。

50歳近くになって独自の政治を行うことが可能となった徳川家慶は、阿部正弘を抜擢したり、天保の改革を手がけるなど、それなりにやる気はあったと推測できますが、結果が出ていません。

とはいえ、徳川家慶の功績には、薩摩藩のお家騒動である「お由羅騒動」に介入し、島津斉興を隠居させて島津斉彬を藩主にしたことや、水戸藩主徳川斉昭の子である慶喜に御三卿の一つである一橋家を相続させた功績が残されています。

しかも、家慶は、天保の改革に失敗した時点で、老中水野忠邦に素早く責任を取らせて阿部正弘を抜擢する人事を速やかに行なった政治手法は、将軍としての資質を有していたといえます。

父家斉と息子家定に挟まれて目立たなかった徳川家慶

12代将軍徳川家慶は、父家斉と病弱な息子家定の存在が、単独での将軍職としての仕事ができていませんが、江戸幕府が大政奉還へ向かう歴史的転換点となる重要な時期ともなっています。

徳川家慶が亡くなる3週間ほど前にペリーが黒船で浦賀に現れ、これがきっかけとなって、尊王攘夷論が武力倒幕派へと変化し、薩摩藩や長州藩の動きも活発化しています。

開国を迫るペリーの要求に対する重要な国の対応を、トップである将軍が亡くなり、後継将軍となった徳川家定にもその判断が的確にできたとはいえず、徳川幕府の終焉のきっかけといえるかもしれません。

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