徳川吉宗の母親は、どんな人だったのか?

紀州藩主から徳川幕府8代将軍に異例の出世を果たした徳川吉宗ですが、将軍生母にあたる母親の素性はあまり言及されていません。

徳川吉宗の母親は、浄円院となったお由利の方とされ、紀州藩士巨勢利清の娘として生まれたとされていますが、百姓の娘だったなど諸説が多くあります。

8代将軍となった徳川吉宗の母親の素性が明言されていないのには、母親の身分がそれほどの身分でなかったためで、身分にこだわった徳川家の気質が感じられます。

異例の出世を果たした徳川吉宗の母親が、どんな人物だったのか紹介します。

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徳川吉宗の母親は?

徳川吉宗の母親は、紀州藩主巨勢六右衛門の娘として生まれたお由利とされ、下働き女中として吉宗の父である紀州藩主徳川光貞の湯殿番をしていた時に光貞が気に留めたといわれています。

徳川光貞が、湯殿でふざけて湯殿番をするお由利にお湯をかけると、お由利がお返しとばかりにお湯をかけ返したことを面白がり、お由利を側室にしたとされています。

下女の身分で、藩主に対してお湯をかけ返すという行為が、お手打ちの可能性もあったと考えられ、この逸話の真実は別としても、気の強い女性だったことが推測されます。

残される資料からは、徳川吉宗の将軍就任への出世とは逆に、母親の出自に関しては、前述の紀州藩主の娘、商家の娘、百姓の娘など、さまざまな説がありますが、いずれも身分の低い出自であったため、曖昧にされ、光貞の死後に落飾して浄円院と名乗っています。

和歌山に残された吉宗生誕の地の石碑の説明文

和歌山で誕生した徳川吉宗の生誕の地には、石碑が建てられており、そこには、「城下吹上邸で生まれたとされている」という説明がなされ、母親に関する記述はみられません。

これには、将軍となった徳川吉宗の母親の出自が関係しており、吉宗の父光貞の死後、浄円院となるお由利の方の母親にあたる冷香院の親子関係が確認できる「寛政重修諸家譜」で確認できます。

これらの史料によれば、徳川吉宗の母親にあたる浄円院が、巨勢氏の家系か巡礼の娘であるかは、さほどの問題ではなく、将軍生母として江戸城大奥に入城したお由利の方が、権威を振りかざす横柄な人物でなかったことが重要かもしれません。

紀州藩主から将軍となった徳川吉宗の母親、浄円院の出自

徳川吉宗は、紀州藩主徳川光貞の四男として生まれ、その母親は俗名を由利といわれ、光貞の湯殿番を務める下女から側室となった人物です。

徳川幕府の歴代将軍の中でも、藩主から将軍職に就任した吉宗の母親として、江戸城に入城したお由利の方は、冷香院の娘ともいわれますが、出自が明確とされていないのには、お由利の方がそれほどの身分でなかったと推測できます。

いずれにせよ、のちに名君と呼ばれる徳川吉宗を産んだ母親が、江戸城における大奥においても、権威をかさに横柄な振る舞いをするわけでもなく、控え目な対応をされていたことに注目すべきかもしれず、光貞の死後、落飾して浄円院となられていることも重要です。

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