徳川慶喜の戊辰戦争開戦前から終結までの関わり

鎖国政策をとってきた江戸幕府に転機が訪れたのは、浦賀にたった四隻の黒船が姿をみせたペリーの来航が、尊王攘夷運動の流れを強めます。

薩長を中心とする武力による倒幕をめざす倒幕派と江戸幕府軍のせめぎあいに加え、イギリスやフランスが双方に関与し、両者の全面戦争となれば、日本が植民地と化す危険性を孕んだ状態にあることを懸念したかどうかは定かでないものの、15代将軍徳川慶喜は、大政奉還を決断します。

これにより、武力による倒幕を目指した薩長を中心とした倒幕派勢力は梯子を外された形になり、戦う大義名分を失ってしまいます。

しかしながら、大政奉還と王政復古の大号令という歴史の流れの次には、戊辰戦争が勃発しており、なぜ戦う理由をなくした倒幕派が戦争を起こせたのかなど紹介します。

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大政奉還した幕府に倒幕派がなぜ戊辰戦争が起こせたのか?

徳川慶喜の決断による大政奉還後、朝廷の上京招集要請を辞退する藩が続出し、政治の実権は幕府が消滅したとはいえ、徳川家が掌握した状態にありました。

そのため、新政府となる朝廷側の政権構築は困難を極め、徳川慶喜の将軍職や摂政、関白などの官職や領地を取り上げる辞官納地を要求します。

徳川慶喜に対する辞官納地の要求を画策したのが、薩長を中心とした倒幕派であり、さらに幕府を戦争に引き込むための工作に浪人を使い、江戸市中を混乱に陥れます。

幕府軍は薩長の挑発工作に耐えられず、江戸薩摩藩邸を焼き払い、徳川慶喜もついに軍勢を京へと進め、鳥羽伏見で錦の御旗を掲げた薩長の軍勢と激突します。

戊辰戦争の始まりと終結は?

徳川慶喜が薩長軍と鳥羽伏見で激突した鳥羽伏見の戦いが、戊辰戦争の始まりといえ、彰義隊の戦い、会津戦争、そして五稜郭の戦いで終結しています。

徳川慶喜が国内の内乱を避けるために決断した大政奉還でしたが、内乱が起き、戦争は起きたものの長期化を避けたという評価もあります。

その一方、倒幕派の挑発に耐えきれず鳥羽伏見に侵攻した徳川慶喜でしたが、薩長の軍勢が朝廷の錦の御旗を掲げていたため、朝敵となることを避けるため、家臣を残したまま、海路で江戸へ逃走しています。

江戸に戻った徳川慶喜は、陸軍総裁の勝海舟に恭順謹慎する旨を告げ、新政府軍との戦争を一任し、上野寛永寺大慈院に入って謹慎しています。

これにより、旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いに負け、新政府軍は逃走した慶喜を討つため、江戸総攻撃を計画しますが、江戸での西郷隆盛と勝海舟の会談による無血開城が成立します。

徳川慶喜の大政奉還と戊辰戦争で見られる二面性

江戸時代の末期において、それまでの封建制度や海外からの侵略の危機などが複雑に絡み合い、幕府運営の行き詰まりによる内乱を避けるために大政奉還を英断した徳川慶喜ですが、その後に勃発する戊辰戦争の始まりとなる鳥羽伏見の戦いでの慶喜の行動は、英断の後の元将軍とは思えないものです。

戊辰戦争は、鳥羽伏見の戦いから、彰義隊の戦い、会津戦争、五稜郭の戦いと一連の戦いが続き終結します。

江戸幕府の消滅と徳川家の政治実権の終焉となる戊辰戦争において、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いでの敗戦以降、謹慎生活を送っています。

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