徳川家定とは?残した功績は?

12代将軍徳川家慶の四男として生まれた徳川家定は、生まれつき病弱なうえ脳性麻痺を患っていたといわれ、本来なら将軍職に就任する人物ではありませんでした。

子沢山だった徳川家慶でしたが、当時の衛生環境のためか、成人となれたのが身体的な問題を抱えた四男の家定のみで、将軍職の重責を押し付けられています。

徳川幕府が終焉に向かう遠因となったペリーの来航による日本の対応を判断する重要な時期に就任した徳川家定ですが、身体的な問題を抱えていたこともあり、実働にあたったのは、老中阿部正弘を中心とした重臣であり、家定の目立った功績は見当たりません。

長く続いていた徳川幕府において、最も難しい対応が必要であった時期に、身内である幕閣と浦賀に現れた外国人に攻め立てられた徳川家定の状況と功績を紹介します。

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徳川家定の生い立ちや人柄には?

ペリーが浦賀に黒船で現れて3週間後に亡くなった父家慶の後に将軍となった徳川家定は、日米和親条約の締結を行い、3代将軍家光が完成させた鎖国体制に転機をもたらします。

12代将軍徳川家慶の四男として生まれ、13代将軍となった徳川家定は、激動の幕末の状況に自らの後継者となる世嗣ぎ問題まで引き起こしています。

徳川家定は生まれつき病弱で、脳性麻痺の影響から言動に不安定さがあり、ふかし芋を自ら作って家臣などに振る舞うなどしたため、イモ公方と揶揄されています。

また、脳性麻痺の影響と幼少時の天然痘で顔のアザが残っていたため、人前を嫌い、コンプレックスを抱えていたため、癇癪持ちでもあったといわれています。

脳性麻痺の症状と病弱さを抱えた将軍職

徳川家定がハリスを呼んで引見した際の状況を書き記したハリスの日記には、家定が言葉を発する際に頭を後方に反らし、足を踏み鳴らすという脳性麻痺の症状を記していて、その一方で、将軍らしい言葉もかけるなど、思考や判断には問題がなかった様子もうかがわせます。

身体的な問題を抱えて将軍職を務めた徳川家定は、幕閣内の開国派と攘夷派の間で判断を迫られ、日米和親条約の締結をしていますが、将軍職にかかるストレスのためか、その後廃人同様となったといわれています。

そのため、13代将軍徳川家定の時代に行われた政治の功績は、ほとんどが老中阿部正弘によるもので、身体的な問題を抱えて将軍職についた9代将軍家重の状況に似ていたと考えられます。

しかも、徳川家定の体調の悪さは、世継ぎを作るどころではなく、その後の将軍継嗣問題を引き起こしており、大政奉還につながる遠因を作った功績を残しています。

徳川家定の後の世に与えた功績は?

生まれつき病弱で脳性麻痺の症状を抱えて13代将軍職に就任した徳川家定は、ペリーの開国要求に対する日米和親条約の締結を行い、その後は、幕閣の内外からのストレスからか体調を悪化させ、廃人同様の状況となっています。

徳川家定の幕政運営を主導したのは、老中阿部正弘であり、大政奉還へ向かう幕末の二人の将軍へとつないでいます。

徳川家定は、のちの大政奉還へのきっかけとなる日米和親条約の締結と将軍職継承の問題を引き起こし、徳川幕府体制維持の弱点を晒し、近代国家への転換を示したことが最大の功績かもしれません。

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