徳川慶喜と水戸藩主との関わり

徳川慶喜といえば、徳川幕府15大将軍として大政奉還を決断し、倒幕派と幕府軍の戦いと外国からの侵略を避けた功績の評価と共に、鳥羽伏見の戦いでの悪評も残した人物です。

第9代水戸藩主の徳川斉昭と有栖川宮家から嫁いだ登美宮吉子の七男として生まれ、幼名を七郎麿と名付けられ、その後、昭致と命名されます。

慶喜は江戸小石川の水戸藩邸で生まれ、生後7カ月で水戸に送られ、一橋家を相続するまでの約9年を水戸藩で過ごしています。

徳川斉昭の七男として誕生した慶喜は、幼少期と大政奉還後の謹慎の期間を過ごしており、水戸藩主の父親を持つ慶喜の将軍職継承となる経緯などを紹介します。

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徳川慶喜の幼少期は?

水戸藩主徳川斉昭の七男に生まれた徳川慶喜は、5歳から藩校弘道館にて会沢正志斎から学問を学び、当初は学問を怠り、水戸藩主の父親から座敷牢に閉じ込められるなどの罰を受けていたといわれます。

しかしながら、幼い慶喜の寝相を治すために、枕の両脇にカミソリの刃を立てて矯正するといった厳しい教育を受けた慶喜は、その優秀さが幼少期から幕府に知られるほどです。

七男である慶喜を養子に出さず、他の兄弟を養子に出した斉昭は、自らの手元に置いて水戸藩主の控えにするつもりでしたが、慶喜11歳の時に状況が変わります。

12代将軍徳川家慶が、慶喜に一橋家を相続させたいとの申し出があり、これにより水戸徳川家から将軍の輩出を望んだ斉昭は、慶喜を養子に出すことを決めています。

これにより、慶喜は水戸から江戸に移り、一橋家の養子となり家督を相続し、12大将軍家慶との対面で気に入られ、その名前を一橋慶喜と名乗ることとなります。

徳川慶喜の将軍就任と大政奉還

徳川家茂の死後、15代将軍となるべき徳川慶喜は将軍職継承を拒み、約4ヶ月ほど将軍職が空位となっています。

徳川慶喜の将軍就任には、慶喜が水戸藩主徳川斉昭の七男であることに対する反対意見が強くあり、そのまま将軍職を継承すれば、その反対勢力による政権運営に支障をきたすと考えた戦略とも思われます。

周囲からの必要な説得を受け入れ、15代将軍就任を受け入れた徳川慶喜は、幕府重鎮たちに対して恩を売った形で幕府政権運営を行うことが可能となり、その後の慶応の改革を推進し、大政奉還という歴史的な決断を下しています。

徳川慶喜の将軍在職期間は、わずか1年で江戸幕府が終焉を迎え、戊辰戦争の始まりとなる鳥羽伏見の戦いでの江戸への逃走により、上野寛永寺、水戸、駿府と謹慎する場所を移動しながら、新政府となる明治政府への恭順の姿勢を崩していません。

大政奉還による日本国内での内乱の勃発を抑えるための英断をしながら、鳥羽伏見での逃走をしでかす慶喜の二面性は、幼少期からの優秀さからくる常人とは違う判断基準が垣間見え、のちの評価が大きく二分する原因となっています。

徳川慶喜は水戸藩主の家系から初めて将軍へ

徳川慶喜は、水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、幼少期からの優秀さから父斉昭が水戸藩主の控えとするつもりで教育しています。

しかし、12代将軍徳川家慶の申し出により、水戸徳川家からの将軍を輩出するために一橋家に養子に出された慶喜が、家督を相続し、15代将軍へと就任します。

徳川幕府の将軍に就任する際に、水戸藩主の父を持つ徳川慶喜の出身を理由に就任を反対する勢力に対して、就任を拒み恩を着せた戦略をとったともいわれ、その後の政権運営を円滑なものとしますが、大政奉還と戊辰戦争という歴史上の転換点において、その評価に賛否両論が存在しています。

一橋家への養子となっていなければ、徳川幕府将軍職の継承どころか、水戸藩主になることもなかったかもしれない徳川慶喜の運命は、父徳川斉昭による養子に出されるタイミングが影響しています。

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