徳川慶喜の鳥羽伏見の戦いでの逃走の本意は?

浦賀沖にペリーが黒船四隻で現れたことで、日本国内には開国派と攘夷派の対立が起き、それと同時に倒幕派の動きも活発化します。

ペリー来航の翌年に不平等条約と呼ばれた日米通商条約の締結により、薩摩藩と長州藩の攘夷運動は強まり、薩英戦争や下関戦争により諸外国との国力の差を痛感した薩長の両藩は、倒幕運動へと変化します。

徳川家茂による二度にわたる長州征討により、幕府軍は近代兵器を有した長州藩に惨敗し、薩長両藩の武力討伐計画が進行する中、徳川慶喜が江戸侵攻前に大政奉還を行います。

倒幕派の武力討伐の大義名分がなくなった薩摩の西郷隆盛の指示による挑発工作により、徳川慶喜の旧幕府軍と薩摩藩を中心とした新政府軍との戊辰戦争の最初の戦いとなる鳥羽伏見の戦いを紹介します。

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鳥羽伏見の戦いが起きた理由は?

徳川慶喜の大政奉還には、国政を政治統治能力のない朝廷に返すことで、将軍としての地位は無くしても、徳川家の国政における実権を握る意図があります。

薩摩藩を中心とした武力倒幕派は、慶喜の大政奉還で武力倒幕の必要がなくなったものの、徳川家の実質権力を排除できないことに納得できるはずもなく、薩摩藩の西郷隆盛は、徳川家の権力を排除するための武力行使の口実を作るために、浪人を使って江戸での強盗や略奪、放火などの挑発行為を仕掛けます。

挑発に耐えられず庄内藩による江戸の薩摩藩邸の焼き討ちが起き、徳川慶喜の旧幕府軍には薩摩藩を武力討伐する機運が高まり、西郷隆盛の思惑通りに挙兵行動につながります。

旧幕府軍と薩摩藩を中心とした新政府軍が京都に向けて兵をすすめ、鳥羽街道で両軍が衝突し、鳥羽伏見の戦いが始まります。

鳥羽伏見の戦いでの徳川慶喜が逃走したのは?

大政奉還により、薩摩を中心とした武力倒幕派の侵攻を避けた徳川慶喜でしたが、薩摩藩の西郷隆盛による挑発工作に耐えきれず鳥羽伏見の戦いに挑みますが、薩摩を中心とした倒幕派が朝廷軍である「錦の御旗」を掲げていたことで、海路で江戸へ逃走しています。

鳥羽伏見の戦いは、兵の士気、戦法、兵器のいずれも薩摩軍を中心とした新政府軍が旧幕府軍を圧倒していて、旧幕府軍の負けは当然の状況といえます。

江戸に逃走した徳川慶喜は、朝廷に対して恭順の意思を示した謹慎をする旨を勝海舟に託し、上野寛永寺で謹慎を決め込んでいます。

徳川慶喜の鳥羽伏見の戦いでの逃走には、朝敵となることを避け、関わった家臣や自身へのそれ以上の処罰を避けるためだったのか、本意はわかりません。

鳥羽伏見の戦いでの徳川慶喜の逃走

武力倒幕派の中心だった薩摩藩は、徳川慶喜の大政奉還により、戦う大義を無くし、西郷隆盛による浪人を利用した挑発行為を仕掛けます。

この挑発に耐えられず、庄内藩が江戸の薩摩藩邸の焼き討ちが起き、これにより徳川慶喜の旧幕府軍が薩摩軍を武力による討伐しようとする機運が高まり、両軍の兵が鳥羽伏見の戦いでぶつかります。

薩摩軍は事前に朝廷から「錦の御旗」を受けており、薩摩軍が正式な朝廷軍である報告を受けた徳川慶喜は、朝敵となることを恐れ、兵を残したまま海路で江戸へ逃走しています。

徳川慶喜の天皇を崇拝する心情の強さから逃走したと想像されますが、慶喜が朝廷に対して自ら謹慎したことで、徳川家に対する攻撃を避けたのかもしれません。

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