徳川秀忠が中山道を経由して関ヶ原へ向かったのはなぜ?

徳川幕府二代将軍となる徳川秀忠の初陣となった関ヶ原の戦いは、決戦に間に合わないという大失態を仕出かし、トラウマになっています。

関ヶ原の戦いに遅れた徳川秀忠が、その後の大坂の陣でも、家康の軍勢の到着を気にするあまり進軍を急ぎすぎ、着陣した時点では兵が疲労困憊の状態で戦える状態にないほどで、またしても、家康から叱責を受けたといわれています。

徳川幕府が開かれる前の1600年に起きた関ヶ原の戦いは、徳川家康の本隊が東海道を進軍するため、徳川秀忠は別働隊の指揮を任され、中山道を進軍しています。

徳川秀忠が関ヶ原の戦いに大遅刻する結果となった中山道の進軍におきた上田城での戦いと、関ヶ原にたどり着くまでの経緯を紹介します。

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徳川秀忠が関ヶ原の戦いに中山道を使ったのはなぜ?

徳川家康は、関ヶ原の戦いに全軍で東海道を進軍すれば、上杉家やその他の西軍につく大名から挟み撃ちになる危険性があり、自軍を二手に分けます。

関ヶ原の戦いに臨む本隊は、もちろん徳川家康が率いて東海道を進軍し、徳川秀忠を総大将とした別働隊に中山道を進軍させ、西軍に加勢する大名への威嚇の効果を狙ったと考えられます。

しかし、中山道の途中にある上田城の真田昌幸が、初陣の徳川秀忠を少数の軍勢で挑発したため、大軍を統率した秀忠が城攻めを始め、真田の少数の軍勢は一度打って敵を引きつけては敗走し、伏兵による襲撃を仕掛け、夜襲も巧みに仕掛けます。

城攻めには、兵糧攻めなどのテクニックや時間が必要となるものの、初陣で頭に血の上った秀忠にはその余裕もなく、上田城攻略もできず、関ヶ原の到着にも大遅刻となります。

徳川秀忠が関ヶ原の戦いにたどった経路と遅刻の原因は?

徳川秀忠が中山道を進軍の途中で、上田城の真田軍の挑発を受け上田城攻略をはかるものの、時間を浪費したために、攻略を諦め関ヶ原へ急ぎますが、天候不順による川の増水で二度必要な川渡りができず、9月15日の関ヶ原の戦いに大遅刻という大失態を仕出かします。

徳川秀忠が関ヶ原の戦いの大遅刻の原因は、当初の家康の計画とは違い、中山道の途中で初陣の秀忠の陣営のみで上田城攻略が必要となり、家康の元には岐阜城陥落の知らせが入り、秀忠の元にその知らせと上田城攻めの優先順位が記されておらず、家康と秀忠との意思疎通が図られていなかったことが最大の理由です。

また、徳川秀忠が進軍した中山道には、利根川を二度渡る必要があり、増水による足止めを受けたうえに、家康の進軍スピードが予定よりも早かったことが重なり、秀忠の大遅刻となります。

関ヶ原の戦いの後、面会を望んだ秀忠に病気を理由に断った家康には、東軍最大の戦功をあげて政権を取ろうとした思惑との違いに、秀忠への八つ当たりのような行動になったと思われます。

徳川秀忠のトラウマとなった中山道での上田城攻略

戦国時代の乱世での戦さの経験のない徳川秀忠の初陣となった関ヶ原の戦いへの進軍が、中山道を経由したため、途中にある上田城の真田昌幸の挑発にあいます。

挑発されたとはいえ、そのまま進軍するわけにはいかない徳川秀忠が上田城攻略を試みたことが、関ヶ原の戦いへの大遅刻の大元の原因となります。

戦上手の真田昌幸は、大軍を率いた秀忠の軍勢を打っては敗走し、伏兵に襲撃させ、夜襲も併用し、翻弄された秀忠は時間だけを浪費しています。

家康と秀忠の連絡もうまくとれておらず、そのうえ秀忠は利根川の増水による足止めを受け、関ヶ原の戦いの勝利を手にした家康でしたが、思惑との違いに秀忠に八つ当たりともいえる面会拒絶をしています。

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