徳川慶喜のゆかりの地は?墓所は?

徳川幕府の最後の将軍として大政奉還の決断を下した徳川慶喜は、小石川の水戸藩邸で第9代水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれています。

約260年間継続した徳川幕府の中で、徳川慶喜の将軍在職期間は僅か1年しかないものの、のちの日本の在り方も左右するほどの決断をしています。

徳川家の歴代将軍の中で、在任中に江戸城入城しなかった唯一の将軍が徳川慶喜で、大政奉還や新政府軍への江戸城の無血開城を行なっています。

江戸時代から明治維新へと時代を転換させた徳川慶喜のゆかりの地と、77歳で亡くなり埋葬された墓所を紹介します。

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徳川慶喜のゆかりの地といえば?

徳川慶喜の最後の将軍としての最大の功績は、国内での新政府軍と徳川幕府軍との内乱を避け、外国からの侵略による植民化をも避けるための大政奉還です。

王政復古の大号令によって邪険な扱いを受け、江戸では薩摩が幕府を挑発して狼藉を繰り返し、江戸城への放火などににより、鳥羽伏見の戦いに出陣する決意を固めます。

しかしながら、鳥羽伏見の戦いにおいて、徳川慶喜は尊皇攘夷思想を抱いていたため、朝敵になることを避け、家臣を残したまま戦場を逃げ出してしまい江戸に戻ってしまいます。

朝廷への反逆の意思がないことを示すために自ら隠居した場所が上野寛永寺の大慈院で、徳川慶喜ゆかりの地といえます。

また、大政奉還の後、20年余りを過ごした現在の静岡市葵区にある徳川慶喜公屋敷跡の浮月楼もゆかりの地となっています。

徳川慶喜の墓所は?

徳川家の歴代将軍の墓所は、初代家康が菩提寺と決めた増上寺と、その後、天台宗の僧侶天海との関係から創建された寛永寺もまた菩提寺となっています。

一橋家の養子となり徳川幕府最後の将軍となって、大政奉還を成した徳川慶喜だけが、谷中霊園に墓所が設けられています。

徳川慶喜の墓所は、明治天皇への感謝を示すために仏式による葬儀ではなく神式で行うように遺言していたため、皇族と同様の円墳型になっています。

徳川慶喜の墓所のそばには、慶喜の十男勝精のお墓もあり、現在では墓所の周囲に柵を設けて入れないようになっています。

徳川慶喜のゆかりの地と墓所

徳川慶喜は大政奉還を成して、新政府軍と徳川幕府の内乱に乗じた外国からの侵略を阻止した最大の功績を残し、今の日本の在り方を指し示した江戸幕府最後の将軍です。

徳川慶喜のゆかりの地といえば、大政奉還とその後の鳥羽伏見の戦いに関連した上野寛永寺の大慈院や江戸城、そして、大政奉還後に過ごした現在の静岡市にある慶喜公屋敷跡の浮月楼などがあげられます。

77歳で亡くなった徳川慶喜の墓所は、歴代の将軍たちの菩提寺とは違う谷中霊園に設けられ、皇族と同じ円墳型のお墓にされています。

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