徳川慶喜が大政奉還した理由は?

徳川慶喜が15代将軍に就任する時期の江戸幕府は、ペリーの黒船による来航によって外国からの侵略の危険性と尊王攘夷運動の高まりから、幕政の舵取りが最も難しい時期であったと考えられ、将軍継承をためらった慶喜によって将軍不在の空白期間が数ヶ月あります。

徳川幕府がもっていた政治を行う権限を、天皇や皇族といった朝廷に戻す大政奉還に踏み切るには、それなりの理由が考えられます。

尊王攘夷運動の高まりによる倒幕派と幕府軍の武力による直接対決を回避し、平和裏に政治の実権を移行する構想には、坂本龍馬の大政奉還論や徳川慶喜が考える徳川家の権力の絵図があったといわれます。

徳川慶喜が、長く続いた封建制度による徳川幕府の終わりとなる大政奉還を決断した理由などを紹介します。

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徳川慶喜に大政奉還論を進言した土佐藩

徳川慶喜が、尊王攘夷運動による倒幕派との武力衝突を回避するための奇策ともいえる大政奉還のアイデアは、土佐藩による建白書に記された大政奉還に基づいています。

その大政奉還は、坂本龍馬が土佐藩参政の後藤象二郎に説明し、そのアイデアに賛同した後藤が、土佐藩の前の藩主である山内容堂の名で老中板倉勝静をつうじて徳川慶喜に提出しています。

大政奉還の建白を薩摩藩が了承した理由には、徳川慶喜が拒否すると予想したためで、薩摩の西郷隆盛は、拒否したことを口実にして武力倒幕を実行するつもりだったと予想できます。

徳川慶喜が大政奉還論を採用した理由は?

徳川慶喜が、土佐藩から提出された大政奉還論を採用した理由には、武力倒幕派の大義名分を消失させると同時に、朝廷内には政権を担う人材と組織づくりには徳川家を頼らざるを得ない状況を見越していたと考えられます。

つまり、徳川慶喜の大政奉還には、江戸幕府というものをなくすことで、徳川家に政治の実権を握るという理由が隠されています。

政治の実権を担う能力がないために、武力による倒幕を目指していた薩長軍は、戦争する大義名分を失い、慶喜が思惑どおりに新政府の主導権を握れると予測されましたが、王政復古の大号令により、徳川慶喜の将軍職のみならず、関白などの官職や領地なども取り上げ、新政府への影響を排除します。

そのため、旧幕府の家臣団が激怒し、薩摩との開戦につながり、鳥羽伏見での衝突につながります。

坂本龍馬が、尊王攘夷運動による倒幕派と幕府軍による武力衝突を避け、外国からの侵略行為を避けるための大政奉還論は、徳川慶喜が徳川家の権力維持の理由を加えたことで、戊辰戦争へとつながったともいえます。

大政奉還論には、発案者の意図と現実には乖離が?

坂本龍馬によって発案された大政奉還論は、土佐藩の後藤象二郎、元藩主の山内容堂によって、徳川慶喜に提出され、尊王攘夷運動派の武力討伐をする理由を消滅させる効果を狙っていました。

しかしながら、現実には、徳川慶喜には大政奉還によって、朝廷に政権を担う人材や組織の能力不足を予測し、幕府を消滅させても徳川家が実権を握ろうとする理由が垣間見え、そのため、薩摩の西郷隆盛や大久保利通による王政復古の大号令により、将軍職以外の官職などの剥奪処分が行われます。

本来ならば、戦争を避けるための大政奉還だったものが、運用段階において、戊辰戦争の勃発となっています。

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