徳川幕府15代将軍として30代前半で大政奉還の決断を下した徳川慶喜は、その後の新政府との関わりを断たれ、政治への関与ができない謹慎と隠居生活を長く過ごしています。
歴代の徳川家将軍のなかでも、77歳という当時では長寿といわれる年齢まで生きた徳川慶喜は、新しいものへの好奇心が強く多趣味であったことは有名で、食への関心も強かったようです。
最後の水戸藩主となる慶喜の弟、昭武とは兄弟仲がよく、明治以降にも頻繁に交流しており、写真や油絵などを楽しんでおり、その際、コーヒーを飲んでいたといわれます。
幕末から明治へと時代が激変する時期に、徳川慶喜が好んだとされるコーヒーとの関係などを紹介します。
徳川慶喜とコーヒーの関わりは?
徳川慶喜がコーヒーを飲んでいたとされるのは、1867年に慶喜がフランス人の料理人を雇い、欧米の公使をもてなす際にコーヒーを出した献立が残されているためです。
幕末には、オランダがコーヒーの流通の大半を占めており、史実からは、インドネシア産のマンデリンが使用されたと推測され、徳川慶喜のひ孫にあたる徳川慶朝氏に関わりのあるサザコーヒー会長の鈴木氏が、慶喜が飲んであろうコーヒーを再現しています。
徳川慶喜だけではなく、弟の昭武も将軍慶喜の名代としてパリ万博への出席のための船旅で、コーヒーに砂糖と牛乳を加えて飲み、爽やかな胸中となったという日記を残しています。
幕末期にコーヒーを飲んだ多くの日本人が、焦げ臭さや苦さを感じる人が多かったとされるなか、徳川慶喜、昭武の兄弟は、現代的な味覚を持っていたのかもしれません。
徳川慶喜の謹慎と隠居生活においてのコーヒーは?
徳川慶喜が、欧米の公使のもてなしのためのコーヒだけではなく、自身でも飲むために汽車便を使い、東京の千駄ヶ谷の業者から手に入れていたという記録も残されています。
新しいものへの好奇心が強く、将軍になることに躊躇した慶喜が、大政奉還によって政治の関わりが絶たれたことで絶望することなく、写真や油絵、狩猟などの趣味に没頭することで、生きることができる人であったと想像できます。
そのため、幕末の将軍であった徳川慶喜は、当時の男性としては珍しく、自分で料理を行ったといわれ、コーヒーの手配も自身で行ったと考えられます。
徳川慶喜のひ孫にあたる慶朝氏がカメラマンとなり、コーヒー好きであったことも、慶喜の血を引いていたのかもしれません。
徳川慶喜がコーヒーを好んでいた?
江戸時代の幕末において、徳川慶喜が欧米の公使をもてなすために、フランス人料理人が作った献立にコーヒーが出されている記録が残されています。
欧米の公使たちと食事をした徳川慶喜が、コーヒーを飲んでいたことは明らかで、大政奉還後の明治に入った謹慎、隠居生活をする慶喜が、東京の業者に依頼し汽車便を使ってコーヒーを入手していた記録も残されており、好んで飲んでいたことが推測できます。
徳川慶喜が、多趣味で自分で何事も行う人柄であったことからすれば、写真や油絵を楽しみながらコーヒーを飲んでいたとしても、不思議はありません。