徳川家茂と勝海舟のかかわりは?

ペリーが浦賀沖に四隻の黒船で現れて勢力を強める尊王攘夷論や武力倒幕派の一方で、勝海舟は幕府側の人間でありながら、異彩を放つ存在でした。

徳川幕府の御家人とはいえ、41石の貧乏生活を強いられた勝海舟は、黒船の来航による幕府の海防意見書募集に提出した内容を老中阿部正弘に認められ、長崎海軍伝習所教頭となり、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節となり、咸臨丸の実質的館長に就任しています。

アメリカから帰国後、一時海軍伝習所から遠ざかりますが、徳川家茂の上洛にあわせた直訴により神戸海軍操練所を創設しています。

3代将軍家光が完成させ長く続いた鎖国体制の変化に対応した海軍の必要性を説いた勝海舟と、朝廷と攘夷を約束した徳川家茂とのかかわりを紹介します。

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徳川家茂と勝海舟との直接のかかわりは?

勝海舟が海軍に関わる要職に就任したのは、勝が提出した幕府の海防意見書の内容を老中阿部正弘が認めたためで、その後の遣米使節や咸臨丸の実質的艦長に抜擢されています。

しかしながら、咸臨丸での渡米から帰国後には、無関係の蕃書調所頭取助に異動させられ、海軍との関わりを断たれた左遷と受け取り、勤務態度は不真面目だったといわれ、文久の改革で海軍への復帰が叶うと、軍艦奉行並に就任し、神戸海軍操練所の設立に奔走します。

徳川家茂が公武合体の推進を図るために230年ぶりに上洛し、過激な攘夷運動の攻勢にさらされ、朝廷と攘夷を行う約束を取り交わして江戸に戻る途中で勝海舟と会っています。

京都から大阪へ下った徳川家茂を出迎えた勝海舟は、順動丸に乗せて神戸まで航行し、神戸港を日本の中枢港湾にすべきことなど、家茂に進言しています。

徳川家茂と勝海舟の立場の違いを認めた関係性には?

230年ぶりとなる将軍の上洛の帰途に押しかけて直接意見する勝海舟の行動には、現代でも組織内の常識からすれば、常軌を逸しています。

しかも、朝廷と攘夷の実行を約束した徳川家茂が、軍艦奉行並の役職の勝海舟の申し出とはいえ、順動丸に乗り込み、海軍の必要性を説く勝の話を聞いた寛容さと即断即決には、若干20歳程度だった家茂の将軍としての能力の高さが伺えます。

幕府の威信が崩れ、武力倒幕派が勢力を強めるなか、公武合体をすすめるための上洛で、朝廷から攘夷の実行を求められた徳川家茂の心情に、海軍の必要性を説く勝海舟の言葉が苦悩を深めたかどうかは、推測するしかありません。

徳川家茂の急逝を知った勝海舟が、日記に「家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ」と記すほど、勝の家茂に対する評価は高く、幕閣としての対応に苦慮した勝海舟の立場も暗示しているように感じられます。

歴史の転換点にいた立場の違う徳川家茂と勝海舟

13代将軍徳川家定に世継ぎがいなかったために将軍世嗣問題に巻き込まれ、わずか13歳で14代将軍となった徳川家茂は、その若さの割に有能で、失墜した幕府の権威回復と尊王攘夷論の高まりを抑えるために公武合体を模索して、上洛しています。

日米修好通商条約の締結のための遣米使節としてアメリカを訪れた経験をもつ勝海舟には、他の幕臣とは違う時代感覚があり、海軍の軍艦奉行並として海軍の必要性から、神戸海軍操練所の設立による人的資源の確保を主張しています。

幕府の中で立場の違う徳川家茂と勝海舟が直接会っているのは、大阪から神戸へ向かう順動丸の船上であり、勝海舟が家茂に対して海軍の必要性を説き、家茂は即断即決したと言われています。

徳川家茂の即断即決の背景には、その前の朝廷との攘夷の実行の約束があったことは言うまでもありません。

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