徳川家慶が行なった天保の改革とは?

徳川幕府12代将軍徳川家慶は、将軍職に就任しても父である11代将軍徳川家斉が大御所として実権を握り続けたため、独自の政治を執り行えたのは50歳近くになっています。

長期間にわたる徳川家斉による大御所の存在と、障害を抱える息子家定に挟まれる状況にあった徳川家慶は、政権運営の難しさもさることながら、徳川幕府が歴史上の転換点となる大政奉還のキッカケとなるペリーの来航もあった時期の将軍でした。

江戸幕府が大政奉還によって終焉に向かう遠因となったペリー来航の3週間後に亡くなった徳川家慶は、歴代将軍の中でも激動の時期に将軍職を務めています。

大御所と徳川家慶による二元政治の功罪や、徳川家慶が老中水野忠邦を重用して行なった天保の改革を紹介します。

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徳川家慶が行なった幕府での政治とは?

12代将軍徳川家慶が行なった政治は、父家斉が大御所として実権を握っている間は言いなりの状況だったため、「そうせい」という言葉を多用し、家臣たちからは「そうせい様」と揶揄されていましたが、水野忠邦の重用や阿部正弘の抜擢など人材登用には優れていて、単独での政治にはやる気はあったようです。

徳川家慶が老中水野忠邦を重用して行なった政治は、家斉がそれまで行なった贅沢な雰囲気を一掃するための質素倹約、重農主義を目指した政策を立案しています。

老中水野忠邦が主導して行われた天保の改革では、時系列であげると、株仲間の解散、薪水給水令、歌舞伎や人情本や錦絵、絵草紙などの統制、人返し令、上知令が政策として行われています。

いずれの政策も、それまでの家斉の時代を一掃するための政策で、質素倹約と重農主義を実現するための改革内容となっています。

徳川家慶の天保の改革の内容と結末は?

徳川家慶が老中水野忠邦を重用して行なった天保の改革の具体的な政策の時系列は前述の通りですが、それぞれの政策の内容と成果は次のように考えられます。

株仲間の解散は、同業者による物価つり上げを懸念した対策で、物価安定をはかったものの、適正価格の基準がなくなり、逆に経済の混乱を招いています。

薪水給令は、それまで外国船籍の日本海域での異国船打払令による費用負担よりも、日本近海での外国船籍への補給要請に応じる程度の費用で抑える方針に切り替え、海外との敵対関係を避けようとしています。

日本の伝統文化である歌舞伎は風俗を乱すとして厳しく弾圧され、人情本や錦絵なども統制され、歌舞伎役者が追放処分を受けたり、為永春水や柳亭種彦らが処罰されています。

人返し令は、江戸へ出稼ぎに来た地方の農民たちを郷里に戻し、農業従事を促す法令で、強制力も持っていましたが、施行されることはありませんでした。

上知令は、江戸十里四方と大阪五里四方の土地を幕府の直轄地として収容し、その範囲の土地所有者には代替え地を与えるという法律ですが、諸大名や旗本の大反対を受け、老中水野忠邦の失脚の原因となります。

徳川家慶の最大の功績は、天保の改革の最終段階での上知令の失敗を受け、老中水野忠邦を即座に解任し、若い阿部正弘を抜擢したことが幕府の権威維持につながっています。

徳川家慶が行なった天保の改革の功罪は?

徳川家慶が水野忠邦を重用して行なった天保の改革は、それまでの父家斉が行なった贅沢な雰囲気を感じさせる幕政を一新させ、質素倹約と重農主義を目指した政策を実施しています。

株仲間の解散や薪水給令、人返し令、上知令などの国内政治のための政策のいずれも、際立った成果を上げることができず、結果的には老中水野忠邦の失脚を招きます。

その反面で、改革の失敗を受けた幕府人事の対応には、徳川家慶の人材登用の才能が活かされています。

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