徳川家康の三男として生まれた徳川秀忠は、長男信康の謀反の疑いによる自害と次男秀康の早世により、二代将軍継承者となっています。
徳川幕府二代将軍となった徳川秀忠は、二人の兄の状況と父家康の威光を受けた将軍の印象が強いものの、260年にわたって続く幕府の政治基盤となる法令や外交のあり方を決める功績を残しています。
初代家康が大御所として政治の主導権を発揮するなか、その威光を利用しつつ将軍の権威と幕府の文治政治の基盤となる法令制定と発布を行なっています。
徳川秀忠が二代将軍として、その後の幕府運営に寄与する功績について紹介します。
徳川秀忠が文治政治を行うために制定した法令は?
徳川秀忠が、豊臣家との大坂の陣の二回の戦いによって、徳川幕府のそれまでの武力による統治体制から、法令を遵守されることで統治をはかる文治政治への移行をはかっています。
大坂の陣の終結の後、大御所の家康の意向を受けてつくられた武家諸法度の発布により、諸大名を統制するための基準となる法律を示し、大名の権限に制限をします。
また、朝廷や公家を統制するために、禁中並公家諸法度を制定し、政治的権力を朝廷ではなく幕府が有していることを示し、幕府と朝廷の関係性を明示しています。
これら二つの法令の制定と発布には、徳川秀忠が江戸幕府の基盤を強固にした功績としてあげられます。
徳川秀忠が行なった将軍家継承の体制強化と朝廷対策は?
大御所家康の死去後、徳川秀忠は、尾張、紀伊、水戸のそれぞれの藩に、義直、頼宣、頼房の弟たちを配置し、徳川御三家と呼ばれる三家を設置します。
将軍職継承において、将軍に跡継ぎがいないなど血統を維持できない問題が生じた場合に、徳川御三家による継嗣問題を解消するための徳川家の体制強化をはかっています。
徳川幕府の将軍職継承における徳川家の体制強化の功績とともに、朝廷に対しても、天皇家との姻戚関係を構築して対策をとっています。
徳川秀忠の娘である徳川和子を、後水尾天皇に入内させて、朝廷との姻戚関係を作り、禁中並公家諸法度によって厳しい統制も行なっています。
また、幕府内部と朝廷に対する幕府の基盤強化の功績に加え、三代目徳川家光によって完成される鎖国体制の準備となるキリスト教の禁教令なども手がけています。
徳川秀忠の二代将軍として残した功績とは?
徳川秀忠の二代将軍としての功績には、武家諸法度による大名の統制、禁中並公家諸法度による朝廷と公家の統制、徳川御三家の設置による徳川家将軍家継承体制の強化、朝廷との姻戚関係構築と統制の強化、鎖国体制の準備のためのキリスト教の禁教令があげられます。
徳川幕府を開いた父家康の陰で、その功績にあまりスポットが当たらない徳川秀忠は、大坂の陣による江戸幕府の天下泰平の時代の始まりを作り、その後長く続く幕府の基盤を強固にするための法令と体制を築いています。