徳川慶喜が行なった政治と政策には?

江戸幕府最後の15代将軍となった徳川慶喜といえば、それまで幕府が主導していた政権を天皇に奏上した大政奉還が連想されます。

14代将軍となる将軍継嗣の争いに敗れた形で、14代将軍となった家茂の将軍補佐役となり、朝廷との交渉などにあたっています。

家茂の時代に懸念された開国と攘夷の問題に対して、徳川慶喜は開国のための政治摂政と準備をしていたと考えられ、朝廷との交渉も下準備の一つだったと考えられます。

将軍補佐役から15代将軍に就任した徳川慶喜は、大政奉還により新政府へ移行することを予期したような政策立案と政治をすすめています。

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徳川慶喜が大政奉還の準備として行なった政策や政治には?

江戸幕府15代将軍となった徳川慶喜は、フランス公使レオン・ロッシュの助言に基づいて、それまでの複数の老中たちの合議制で幕政運営がなされていた形態を、現代の内閣制度に近い政治組織に変えています。

徳川慶喜を政治組織の頂点にし、老中首座に補佐させ、国内事務総裁、外国事務総裁、会計総裁、海軍総裁、陸軍総裁という五局体制を確立させています。

幕府の政治組織改革に加え、人材登用の強化や新税導入といった財政改革、旗本の軍役を廃止して新体制の陸軍を整備しており、フランスの指導を受けながら対応しています。

徳川慶喜は、大政奉還前に行なった幕府の政治組織の変革、幕府の軍事組織としてのあり方、国内流通や国際貿易など、多岐にわたりフランスの指導や助言を受けた政策を実行に移しており、これら慶喜がおこなった政治改革やさまざまな政策を総称して慶応の改革といわれています。

徳川慶喜の慶応の改革にみられる国家像は?

15代将軍として徳川慶喜がすすめた慶応の改革は、約一年で終わりを告げているため、経済政策での成果は現れていませんが、慶喜が目指した国家の姿を垣間見ることができます。

前述のように、徳川慶喜が行なった幕府政治の組織改革は、現代における象徴天皇制と内閣制を樹立し、国会にあたる議政院に上院と下院を設けた近代的統一国家に近い仕組みが想像されます。

経済政策の構想には、フランス政府との600万ドルの借款契約を結んで軍事改革に必要な武器や弾薬、艦船などの購入を可能にする反面、幕府の年貢以外の税収を増やす必要があり、さまざまな税を設ける政策と豪商との交易組織を立ち上げてフランスとの交易計画が立てられています。

徳川慶喜の経済政策構想でのフランスとの借款には、日本がフランスによる植民地化の危険性も孕んだきわどいものだったようです。

徳川慶喜の幕末での政治には、近代国家への移行の意図も?

15代将軍となった徳川慶喜は、その前に14代将軍家茂の将軍補佐役として、朝廷との開国に関わる交渉にもあたり、長州との関わりから海外の情勢にも触れています。

そのため、将軍職就任後は、それまでの幕府政治のあり方を、ヨーロッパを参考とした組織体系に編成を変え、人材登用や財務改革、軍事的な整備もすすめています。

これらの徳川慶喜によるさまざまな政策や政治は、慶応の改革と呼ばれ、フランス政府の影響を多大に受けていて、フランスとの莫大な借款契約には、日本の植民地化もはらんだものでした。

鳥羽伏見の戦いでの逃走で、将軍として酷評される徳川慶喜ですが、大政奉還前に行なった政治や立案した政策などからは、近代日本の国家像を想像した幕府運営を行ったことが推測されます。

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