徳川家斉と側室のお美代の方との関わりは?

天下統一を成し遂げた徳川家康が将軍職を2代将軍秀忠に譲り、3代将軍の家光を後継指名したことで、徳川幕府将軍職の長子世襲制を確立させています。

徳川将軍家の後継ぎの安定的な確保の為に、将軍は正室のほかにも多くの側室を抱え、御三家や御三卿からの養子の受け入れなども考慮されています。

11代将軍徳川家斉は、一橋徳川家の二代目徳川春定の長男に生まれ、10代将軍家治の息子家基が急逝したため、家治の養子となって将軍職に就任した人物です。

徳川家斉は、歴代将軍の中でも無類の女好きで知られ、多くの側室の中でもっとも寵愛したお美代の方との関わりなどを紹介します。

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無類の女好きだった徳川家斉とは?

15歳で将軍になった徳川家斉は、その後約50年間将軍として実権を握り、特定されているだけでも16人の側室を抱え、53人もの子供を作った精力絶倫の将軍です。

子供を産んだ側室だけで16人ですから、関係をもった女性の数は40人とも50人ともいわれ、大奥にそれだけの側室と子供の生活を支えるために必要な人と金も相当な負担が必要で、幕府の財政悪化の一因ともなっています。

徳川家斉が子供を多く作ったのには、前述のように将軍が継承される血筋が将軍宗家と御三家、それに吉宗が新たに設けた御三卿に限られていたため、紀州の血筋で固めようとしたと考えられます。

徳川家斉には、日頃からオットセイのペニスの粉末を飲んで精力強壮をはかり、いつでもことに運べるように薄着でいたという逸話も残され、政務そっちのけで子作りに励んでおり、目的以上に単なる好きモノだったようです。

そのため、徳川家斉には「オットセイ将軍」のあだ名がつけられ、もっとも寵愛したお美代の方との関わりでトラブルも起きています。

徳川家斉が寵愛したお美代の方とは?

徳川家斉の寵愛を受けたお美代の方の実父は、下総国中山の智泉院の住職で祈祷僧の日啓で、お美代は旗本の中野清茂のもとに奉公にあがり、養女となっています。

天下泰平の状況が続いていた徳川家斉の時代背景と家斉の精力絶倫の噂から、中野清茂が美貌のお美代の方を大奥へ送り込んで家斉との関わりを深めることを画策しています。

祈祷僧と側近の旗本の二人を父とする美貌のお美代の方を、オットセイ将軍の異名を持つ徳川家斉が無碍にする訳もなく、二人の父の思惑通りお美代の方は家斉の寵愛を受けます。

お美代の方の実父は、智泉院住職の日啓ということもあり、新たな寺の建立を家斉に頼み住職としていて、その寺は家斉が関わったことで多くの参詣客を集めますが、裏では大奥女中と寺の僧侶たちとの密会場となっている噂が広まっています。

家斉が亡くなると、お美代の方の父である日啓の寺の密会場の噂は幕府の耳にも入り、日啓が捕縛され、お美代の方の関与も疑われますが、お美代の方は責任を回避しています。

また、お美代の方の孫である犬千代の将軍職に就任させるために、家斉の遺言状を偽造しますが、正室の広大院が偽造を見破り、お美代の方を大奥から追放し、偽造に関わった養父の中野清茂を登城差し止めにしています。

天下泰平の徳川幕府を謳歌した徳川家斉

長く続いた徳川幕府の歴代将軍の中で、最も長く将軍職として実権を握り、天下泰平の幕府政治と大奥を謳歌したのが、11代将軍徳川家斉だったと言えます。

徳川家斉のお気に入りだった側室のお美代の方が、大奥での勢力争いを演じて、実父の淫行疑惑や家斉の遺言偽造といった事件を起こしたのも、天下泰平の状況があったから生み出されたのかもしれません。

将軍生母となれず、将軍の遺言偽造という事件を引き起こしたお美代の方は、幕末から明治維新を目撃して明治5年に亡くなっています。

徳川家斉の死後、わずか30年ほどで明治へと時代が移ることになった原因の一端は、家斉が将軍として天下泰平を謳歌し、幕政運営の小さなほころびを繕えなかったためかもしれません。

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