徳川慶喜を倒すための王政復古とは?大政奉還との違いは?

徳川幕府15代将軍に徳川慶喜が就任した時期は、幕府の権威が失墜していて、長州藩の武力倒幕派、薩摩藩や越前藩などの公武合体派、幕府存続派といった対立が起きています。

14代将軍徳川家茂による二度の長州征討で、近代兵器を有する長州藩に惨敗した状況から、薩長両藩による武力討伐勢力が勢いづき、江戸城への侵攻を計画します。

徳川家の国政での実権を失くすことなく、江戸城下での武力討伐勢力との内戦を避ける奇策ともいえる大政奉還を決断した徳川慶喜ですが、武力倒幕派の岩倉具視を中心としたクーデターともいえる「王政復古の大号令」によって、徳川慶喜の政治権力を消失させます。

初代家康から約260年続いた徳川幕府の終焉となる徳川慶喜の大政奉還の決断と、岩倉具視らによる王政復古の大号令について紹介します。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

岩倉具視らによる王政復古の大号令の中身とは?

徳川慶喜による大政奉還は、幕府がもつ国内政治の実権を朝廷に返還することで、幕府の消滅を意味するため、武力倒幕派にとっては内戦を起こす大義名分を無くします。

しかしながら、朝廷が国政を取り仕切る組織や人材を確保できていない状況では、徳川家に実働を頼らざるを得ず、徳川慶喜が実権を握ることは変わらないことになります。

岩倉具視らによる王政復古の大号令は、徳川慶喜の将軍職辞職を勅許し、京都守護職と京都所司代の廃止、幕府の廃止、摂政と関白の廃止、新たに総裁と議定と参与の三職をおくといった五項目が盛り込まれています。

これには、徳川慶喜の政治権力を剥奪し、松平容保や松平定敬らの京都追放により一橋家と会津藩、そして桑名藩の連携を壊し、幕府の組織の解体と新政府の運営形態を構築するための内容となっています。

王政復古の大号令を発した意味は?

徳川慶喜による大政奉還が行われた後も、慶喜の将軍職辞職がなされず、幕府に変わる議会も行政を行う機関の設立もなされず、徳川慶喜が政務を継続します。

しかも、国政が継続する状況を受けて、幕府存続派による大政再委任を要求するまで勢力を強め、大政奉還の奇策を生み出した坂本龍馬の暗殺により、武力倒幕派の勢いも強まり、政局は再度の混乱を引き起こします。

その状況を打破するために、岩倉具視らによる王政復古の大号令の発令は、徳川慶喜の新政府への政治的な関与を排除することはもちろん、幕府によって処罰された武力倒幕派の大名や公家を復権させるためです。

これにより、薩摩、土佐、安芸、尾張、越前の5藩が御所の城門を封鎖して、新政権の樹立を国内に宣言することとなります。

王政復古の大号令により、徳川慶喜が排除された?

江戸幕府の国内政治の実権を朝廷に返還する大政奉還を決断した徳川慶喜ですが、その実情に不満を持つ岩倉具視らの武力倒幕派が、「王政復古の大号令」を発して新政府樹立を宣言します。

「王政復古の大号令」には、幕府の解体と徳川慶喜を新政府への関与を排除する目的がありましたが、このクーデターは実質的には失敗し、西郷隆盛らによる鳥羽伏見の戦いをはじめとした戊辰戦争へと発展し、武力による幕府倒幕となります。

徳川慶喜による大政奉還の奇策により、のちの内戦状況が短く済んだという評価もありますが、慶喜の評価は専門家の間でも分かれています。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

tokugawa-history.comレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする