徳川慶喜をめぐる勝海舟と西郷隆盛の江戸開城の動きとは?

徳川慶喜の武力倒幕派の大義名分を無くし、内戦による国内の混乱を避けるための奇策は、薩摩藩西郷隆盛による挑発行為によって、旧幕府軍と薩摩藩を中心とした新政府軍の挙兵につながり、鳥羽伏見において軍事衝突が起こります。

鳥羽伏見の戦いで薩摩藩と衝突し、錦の御旗を確認した徳川慶喜は兵を置き去りにして海路江戸に逃走していて、その後処理を任された勝海舟が、西郷隆盛との対応にあたります。

江戸へ兵をすすめた錦の御旗を掲げた薩摩藩の軍勢が、江戸城への総攻撃を準備するなか、朝廷に対する恭順謹慎の姿勢を決め込んだ徳川慶喜の命を受けた勝海舟が、江戸での内戦を避けるために手を尽くしています。

江戸城の無血開城を成し遂げた西郷隆盛と徳川慶喜に一任された勝海舟の動向を紹介します。

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勝海舟と西郷隆盛の会談の事前協議には?

鳥羽伏見の戦いで逃走した徳川慶喜は、それ以降の権限を勝海舟に一任したため、慶喜の護衛を務めていた山岡鉄舟に意向を確認させ、勝海舟の書状とともに西郷との面談に向かわせます。

駿府まで侵攻していた薩摩藩の元で会談した山岡鉄舟は、西郷から開戦回避の条件として、旧幕府権力のすべての権力と武器を放棄することが求められます。

一方の山岡鉄舟は、西郷隆盛に対して、徳川慶喜の身柄を備前に留め置く事だけを主張しています。

山岡鉄舟に西郷隆盛との事前交渉を任せた勝海舟は、江戸での総攻撃の場合には、江戸城下を焦土と化す作戦を準備し、庶民を千葉へ避難させるための準備もしています。

江戸城無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛との会談は?

徳川幕府陸軍総裁の勝海舟と大総督府下参謀の西郷隆盛との会談は、東征軍が江戸総攻撃を3月15日に設定した前日と前々日の二日が予定され、二度行われています。

一度目の会談では、山岡鉄舟と西郷隆盛の事前交渉で提示された徳川慶喜の降伏条件を確認しただけで終了しています。

東征軍の江戸総攻撃を控えた前日に行われた二度目の会談において、勝海舟が提示したのは、徳川慶喜の水戸での謹慎と命に関わる処分者を出さず、江戸城の明け渡しに対して寛大な処分を望むというものでした。

旧幕府軍の降伏条件を交渉する会談において、勝海舟が提示した条件は、普通であれば負けている側が提示できるものではないものの、イギリス公使パークスによる万国公法に基づく圧力と勝海舟が西郷隆盛に教示した新政権構想に対する信頼が影響したと考えられ、西郷隆盛は、勝海舟の提示条件を京に持ち帰り検討すると回答しています。

これにより、江戸城無血開城が決定し、江戸城総攻撃は中止されています。

鳥羽伏見の戦いで豹変した徳川慶喜の後始末をした勝海舟

大政奉還による幕府から朝廷への政権返還によって、内戦の危機を回避した徳川慶喜でしたが、その後の挑発行為を受けて鳥羽伏見の戦いが始まります。

この戦いの最前線に立ちながら逃走した徳川慶喜の降伏条件と江戸城明け渡しに関して、勝海舟が慶喜の代わりにあたり、江戸総攻撃を控えた前日と前々日の二度の会談によって戦争を回避しています。

この会談で、負けている側の勝海舟の条件提示を許諾した西郷隆盛には、イギリス公使パークスによる圧力と江戸総攻撃による影響を諭した勝海舟への信頼があったと推測されます。

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