徳川家綱と保科正之の関係

3代将軍徳川家光の急逝により、わずか11歳の徳川家綱が4代将軍に就任しますが、若くして脳の病気を患っていた影響もあり、幕閣の上層部が後ろ盾となって幕政運営に当たっています。

いわゆる寛永の遺老と呼ばれる家光時代の幕閣の上層部にいた大老の酒井忠勝、老中の松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清らと共に、保科正之も、幕政の安定に寄与しています。

保科正之は、2代将軍徳川秀忠と奥女中お静との間の子供でしたが、秀忠の正室お江の嫉妬から、保科家で養育された経緯があります。

徳川家光に人格を認められて最上山形に20万石を与えられた保科正之は、そこから政治家としての本領を発揮し、次第に幕政へも参画するようになります。

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徳川家綱の後ろ盾となった保科正之とは?

11歳で将軍職に就任した徳川家綱の後ろ盾となった保科正之は、徳川幕府2代将軍秀忠と大奥女中お静との間に産まれた実子ですが、見性院の元で養育されたのち、保科正光の養子となった人物で、家綱の従兄弟のおじさんといった間柄です。

徳川秀忠の正室は、大河ドラマでも有名なお市の方の三姉妹の一人であるお江の方で、嫉妬深い性格だったため、秀忠の側室を認めず、大奥から去ったお静の行き先を探させていて、子供とお静の身の安全のために認知されていません。

成長した保科正之は、腹違いの兄弟にあたる徳川家光と接触していて、正之の人格に惚れ込んだ家光は、幕政で重用し、亡くなる前にも枕元に呼んで「宗家を頼み置く」と遺言を残しています。

保科正之は、徳川秀忠や家光との関係を自分から話すことはなかったと言われ、その謙虚さの振る舞い故に家光が将軍座敷にあがるように声をかけ、実弟であることを周囲に示したという逸話も残されています。

徳川家綱を支えた保科正之が行なったのは?

徳川家光に「宗家を頼み置く」と遺言された保科正之は、初代会津藩主として「会津家訓十五箇条」を定め、会津藩は将軍家をいかなる場合にも守護すべきであるといった内容を記しています。

4代将軍徳川家綱の後見人的立場となった保科正之が主導して行なったことには、嫡子のいない当主が死の間際に家督断絶を免れるために養子を取ることを禁止した末期養子の禁を緩和し、大名から人質をとって江戸に住まわせる大名証人制度の廃止、藩主の死に準じた殉死を禁じた殉死禁止令といった法令を発していて、家光までの武断政治から文治政治への転換をはかっています。

徳川家綱は、わずか11歳で将軍となったことに加え、温厚な性格だったと言われ、保科正之をはじめとした寛永の遺老たちによる政治運営に対して、「然様せい」が決まり文句だったといわれ関係は良好だったようです。

温厚な性格を示すかのように、明暦の大火の復興には、徳川家綱が率先してあたり、生活再建のための庶民への手立てを講じたといわれ、人情味のある将軍でもあったようで、保科正之との政策に通じるものを感じさせます。

年少の徳川家綱を支えた保科正之と寛永の遺老たち

徳川家光の急逝を受け、11歳で4代将軍に就任した徳川家綱の後見人的立場として後ろ盾になったのが、家光の腹違いの弟である保科正之をはじめとした寛永の遺老たちでした。

まだ幼い家綱を補佐して幕政運営にあたる保科正之たち重臣は、それまでの武断政治から文治政治への転換をはかり、江戸幕府の法令をはじめとした基盤を強化しています。

徳川家綱と保科正之たち重臣との関係は、重臣たちの主導する政治に「然様せい」と許可を与えるのが、決まり文句になっていたらしく、信頼関係が成立していたようです。

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