徳川慶喜は大政奉還後どうなったのか?

徳川家歴代の将軍の中でも77歳まで生きた徳川慶喜が、江戸幕府の終焉となる大政奉還を決断したのが30代ですから、大政奉還後は長い隠居生活を送っています。

水戸藩主の七男として生まれ、一橋家へ養子に出されたことで、将軍職就任の可能性を掴みながらも将軍職就任を渋り、江戸幕府最後の将軍としてさまざまに評価されています。

大政奉還後の鳥羽伏見の戦いでの敵前逃亡によって、大奥からは批判を浴び、悪評も高い反面、江戸での全面戦争が回避できたのが慶喜の功績との評価もあります。

徳川慶喜が如何にして大政奉還を選択し、大政奉還後に如何なる人生を過ごしたのかを紹介します。

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大政奉還後の徳川慶喜は?

倒幕運動の高まりによる尊王攘夷派と幕府の衝突を回避した形となった大政奉還を実現させた徳川慶喜でしたが、その後の薩摩の西郷隆盛らの工作により、鳥羽伏見の戦いにつながる挙兵行動にでます。

家臣を鼓舞して戦場での指揮に向かった徳川慶喜は、新政府からの倒幕の大義名分を与えられた薩長の軍勢を前にして、家臣を残したまま、おそらく一人だけ江戸へ海路で逃走しています。

その後、新政府軍との戦いを勝海舟に一任し、自分は早々に、明治政府にこれ以上は逆らいませんという意思を示す謹慎を決め込んでいます。

そのため、先代将軍の正室和宮に朝廷に執り成し依頼も嫌がられ、その姑にあたる篤姫からは、慶喜とその子孫とは付き合わないようにと周囲に告げたとも言われるほど、評判を落としています。

大政奉還後、明治政府誕生後の慶喜は?

大政奉還後、王政復古の大号令と続き、戊辰戦争の始まりといえる鳥羽伏見の戦いでの逃走した徳川慶喜は、上野寛永寺での謹慎を決め込みます。

その間に、勝海舟と西郷隆盛の江戸総攻撃をかけた会談での無血開城、最終攻防戦となる五稜郭の戦いでの幕府敗戦によって終結します。

明治新政府は、恭順謹慎していた徳川慶喜を政治の舞台への登場を許すことはなく、慶喜も政治関与を諦め、徳川家当主の座を譲り謹慎のまま隠居生活となります。

戊辰戦争後、上野寛永寺から徳川家発祥の地でもある現在の静岡、駿府へと移住し、写真や狩猟などの趣味に明け暮れる毎日を過ごしています。

晩年になり、明治維新のほとぼりが冷めた頃に、東京巣鴨に移住して貴族院議員として8年間を過ごしたのち、再度の隠居生活を送り77歳で人生を閉じています。

徳川慶喜は将軍就任から苦悩の連続?

徳川慶喜の15代将軍就任には、水戸藩主の父を持ち一橋家への養子という経歴による周囲の反発もあり一時は就任を渋り、幕政も苦悩することとなります。

尊王攘夷運動高まりとペリーの黒船来航からの外国からの侵略の恐怖と、徳川慶喜ならずともその判断は苦悩する状況が連続しており、その中で、内乱を抑え国力を維持しようとした大政奉還の判断は英断とされます。

しかし、大政奉還後の鳥羽伏見の戦いなどの対応には、同一人物の判断とは思えない動向があり、そのための悪評を高めて謹慎と隠居生活を長く送っています。

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