平均寿命が30歳から40歳代ともいわれた江戸時代中期において、8代将軍として約30年在任した徳川吉宗は、66歳まで生きる長寿でした。
江戸幕府の財政危機を迎えていた時期に将軍に就任した徳川吉宗は、自ら質素倹約を実行し、さまざまな政策を打ち出し、享保の改革と呼ばれる財政立て直しに着手しています。
徳川慶喜が将軍職就任した時点での幕府は、贅沢三昧の状態にあり、倹約を訴えるにしても家臣の気持ちを変えることは容易ではなく、君主自らが食事を一日二回で済ますなどの倹約を実行しています。
江戸幕府の財政立て直しのために、徳川吉宗が行なった質素倹約の生活での食事などについて紹介します。
江戸幕府の将軍の食事には?
江戸幕府の江戸城内には、1000人を超える食事担当者がいたと言われ、将軍の食事は江戸の庶民よりは豪華だったものの、将軍によってその内容は異なりをみせています。
歴代の将軍の中でも長寿だった初代の家康や8代の徳川吉宗は、いずれも質素な粗食を常としていて、家康は「一汁一菜」、吉宗は「一汁三菜」を徹底したといわれています。
「一汁一菜」の食事は、ご飯と汁物、菜(おかず)、そして漬物といった組み合わせをいいます。
とくに、徳川吉宗は、「一汁三菜」を守ると同時に、「一日2食で十分だ」という信念を貫き、その頃定着し始めた一日3食の食習慣を頑なに拒否しています。
これは、幕府の財政危機に自らが政務にあたった徳川吉宗の、家臣に対する質素倹約の意思を表す意図も感じられ、歴代の将軍の中でも傑出した人物であったといえます。
徳川吉宗が食事に関連した事例には?
徳川吉宗は、食事を一日二食の「一汁三菜」とする食習慣を徹底し、質素倹約を遂行したことがわかりますが、それ以外にも食に関する取り組みをしています。
徳川吉宗が将軍として政務にあたった享保年間において、西日本で起きたウンカの大発生と冷夏による穀物の収穫がなくなる食糧難となった享保の大飢饉を受けて、サツマイモの生産を飢饉対策の柱としています。
サツマイモは、天候不順や荒れた土地でも生育でき、栄養価も高く、長期保存が可能なため、米を中心とした食事にかわる代用食品としての有用性を、青木昆陽の進言を受けた徳川吉宗が庶民も読めるように、「蕃藷孝」を仮名交じり文に書き留めさせています。
現在でもさまざまに食されるサツマイモを利用した食事は、徳川吉宗の飢饉対策として誕生し、定着したと考えられます。
徳川吉宗の長寿を支えた食事の習慣
江戸時代の中期になり、それまでの贅沢三昧の幕府政治のツケで財政危機の兆しをみせるなか将軍に就任した徳川吉宗は、自らが質素倹約を実行して家臣たちに範をみせて政務にあたっています。
一日三食の食習慣が定着しはじめた当時の食事を、「一日二食で十分だ」と頑なに主張し、「一汁三菜」を堅持しています。
結果的に、徳川吉宗が当時の平均寿命よりも長寿となる66歳まで生存できたのは、質素倹約を実行した粗食な食事が影響したのかもしれません。