徳川家康の子供は何人いたのか?

戦国時代の武将や江戸時代の武士は、血筋や血統を重視し嫡子嫡男を家督相続の第一継承者とすることが基準とされていたため、正室と複数の側室を抱えています。

そのため、戦国武将や江戸時代の武士たちには子沢山も多く、実子や養子に加え、通常の養子縁組ではない官位昇進や他氏族との関係強化などのために結ばれた親子関係の子供がいます。

特に、江戸幕府徳川将軍家においては、初代家康から二代目秀忠に将軍職が継承され、三代目となる家光の将軍職就任に関して家康の長子尊重の発言を受けて、子供が何人いるかが重要となっています。

子孫繁栄のために、江戸城内に大奥を作った徳川家康が残した子供の何人かについて紹介します。

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徳川家康には、何人の子供がいたのか?

徳川幕府をひらいた徳川家康の子供といえば、二代将軍となった秀忠と、謀反の疑いで切腹させられた嫡男の信康がよく知られています。

徳川家康には、正室の築山殿をはじめ、側室には養珠院、西郷局、茶阿局、英勝院、雲光院、相応院などがいました。

将軍職宗家となった徳川家康には、子孫を残すことが重要な仕事の一つとなり、不妊でない証拠として出産経験のある女性を側室に選んでいます。

徳川家康の子供が何人いたかといえば、実子が16人、養子が21人、徳川家の都合によって親子関係となった猶子と呼ばれる子供が1人と、合計38人もいました。

徳川家康の16人の実子には?

徳川家康の16人の実子には、松平信康、結城秀康、徳川秀忠、松平忠吉、武田信吉、松平忠輝、松平松千代、平岩仙千代、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房といった男児の子供たちと、亀姫、督姫、振姫、松姫、市姫の5人の女児の子供たちがいます。

16人もいる実子の中で、何人かの子供について紹介すれば、まずは嫡男の松平信康は、家康の跡継ぎとして岡崎城城主となりますが、武田氏との内通を疑われて切腹させられ、秀康は切腹した嫡男信康の後を受けて跡継ぎとなる立場でしたが、小牧長久手の戦いの和睦の時に豊臣秀吉の養子となっています。

徳川秀忠は、信康と秀康の動向によって家康の跡継ぎとなり二代将軍となり、松平忠吉は関ヶ原の戦いでの傷が元で亡くなり、武田信吉は病弱で21歳で亡くなっています。

松平忠輝は長沢松平氏の家督を相続し、秀忠から改易を命じられ伊勢国に流され、松千代と仙千代の二人は、生後まもなく亡くなっています。

徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房は、それぞれ徳川御三家となる尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家の始祖となっています。

徳川家康の子供は何人?実子は?養子は?

徳川幕府初代将軍となった徳川家康には、権力を後世につなぐために子供を何人も作ることが重大な任務のひとつでした。

跡継ぎとなる嫡男をはじめ、男児は体制維持のために利用され、女児は政略結婚の手駒のように扱われています。

二代将軍となった秀忠以外にも、徳川御三家の始祖となった三兄弟もいますが、生後まもなく亡くなった松千代や仙千代といった子供がいたことも江戸時代の衛生状態が推測されます。

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