徳川吉宗の晩年での政治への関与は?

紀州藩主から徳川幕府8代将軍となった徳川吉宗の晩年は、次期将軍職継承者を家重とするべきかに苦悩した記述が残され、大岡越前に意見を求めたともいわれています。

徳川吉宗は、真宮理子女王を正室として迎えたものの死別しており、側室との間に授かった男子に、家重、宗武、源三、宗尹がいました。

徳川吉宗の長男である徳川家重が9代将軍となっていますが、家重は生まれつき病弱だったうえ、幼少期から大奥での飲酒による障害で言語が不自由だったため、吉宗の晩年には悩みのタネとなっていたようです。

享保の改革を推進させ、中興の祖とも呼ばれた徳川吉宗の晩年について紹介します。

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徳川吉宗の晩年に行った大御所政治

困窮した幕府の財政立て直しを行い、文治政治による幕藩体制の矛盾の解消をはかった徳川吉宗の手腕から、中興の祖とも呼ばれる名君とされていますが、晩年には、次期将軍継承者には頭を抱えています。

徳川吉宗と正室との間に子供はなく、側室の須磨の方との間に生まれた長男家茂が次期将軍継承者ですが、家重には障害による言語が不明瞭ということに加え、猿楽などを好んで文武をないがしろにしたため、将軍としての資質に問題を感じていたと思われます。

そのため、吉宗が大岡越前に意見を求めたとされる記述が、忠相日記にも記されていて、晩年の徳川吉宗が家重に将軍職を譲った後も大御所として実権を握っています。

徳川吉宗の大御所政治は、初代家康が二代目となる秀忠の将軍教育のために大御所として存在した意味合いとは多少異なるかもしれません。

徳川吉宗の晩年の生活では?

徳川吉宗は相当な女好きだったらしく、町奉行大岡忠相の元には「吉宗の子だ」と主張するものが度々現れ、問いただされた吉宗も否定しなかったとされます。

女好きだった吉宗でしたが、長男家重の障害や将軍としての資質の問題から、晩年は大御所として政治の主導権を握っていて、苦悩したと想像されます。

晩年の大御所としての苦悩からか、脳卒中を起こしており、リハビリを行い順調に回復したかに思われている途中で、二度目の脳卒中で倒れて亡くなっています。

中興の祖とも呼ばれた名君、徳川吉宗の晩年は、次期将軍継承者に問題を抱えて、二度の脳卒中が人生の幕を下ろすことになっています。

徳川吉宗の晩年を悩ました次期将軍

紀州藩主から8代将軍となった徳川吉宗は、紀州藩の財政立て直しの経験をもとに、享保の改革と呼ばれる幕政立て直しに取り組んだ中興の祖と呼ばれる名君となっています。

晩年を迎えた徳川吉宗は、次期将軍継承者とする長男の家重に言語の発音障害があることや将軍としての資質に問題があることで苦悩し、大御所として政治の主導権を握っています。

次期将軍継承に関して悩んでいたことは、町奉行大岡忠相に相談したことが、忠相日記にも記され、吉宗の大御所政治が継続したことでも明らかです。

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