徳川家茂と松平容保との関わり

ペリーの黒船来航によって、尊王攘夷論が高まる江戸時代の終盤には、幕府の権威が失墜しはじめ、京都の治安は過激な志士たちの増加で悪化していました。

江戸幕府の存続危機ともいえる混沌とした状況のなか、公武合体を模索して上洛した徳川家茂は、国内の倒幕派と外国からの侵略の危機との板挟みとなります。

徳川家茂の時代に行われた幕政改革である文久の改革の一環として、薩摩藩島津斉彬を中心として、徳川家茂の補佐役に一橋慶喜を将軍後見職に任命し、京都の尊王攘夷過激派によって悪化した治安取締りのために京都守護職を設け、会津藩主松平容保が任命されています。

徳川家康が開いた江戸幕府の歴史の中で最も混沌とした政治情勢の中、松平容保がいかにして京都守護職となり、徳川家茂の警護にあたったのかなどについて紹介します。

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会津藩主の松平容保が京都守護職に就任したのは?

美濃高須藩藩主の松平義建と側室の小森氏の間に生まれた松平容保は、その血筋をたどると徳川宗家が祖先にあたります。

会津藩では、5代将軍徳川綱吉がおこなった文治政治の基盤となった儒教に準じた神道や義理の精神を重んじ、徳川家への絶対随順が会津藩家訓となっており、松平容保の統治指針となっていました。

幕末の江戸幕府の権威の失墜の中、松平容保への京都守護職への就任依頼に対して、容保本人も当初は断り、家老職であった西郷頼母も就任を反対しています。

しかしながら、徳川家茂の将軍後見職である一橋慶喜や松平春嶽から、会津藩家訓を持ち出された説得に就任を決意しています。

松平容保の京都守護職としての功績は?

京都守護職となった松平容保は、会津藩士とともに上洛し、光明天皇に拝謁し、京都での攘夷派の過激志士たちを弾圧して治安維持に貢献しています。

14代将軍徳川家茂が公武合体政策を模索して朝廷との交渉にあたるための上洛に際し、家茂の警護を任された際には、攘夷派の長州派の動向を事前に察知します。

そのため、八月十八日の政変では、攘夷派の長州勢を京都から追放することに成功し、光明天皇からその活躍を賞賛されています。

また、松平容保の京都の治安維持のために、上洛した会津藩士に加えて、壬生浪士により結成された新選組を活用しています。

幕末の治安が悪化した京都を改善した松平容保

尊王攘夷過激派によって悪化した京都の治安の回復と取締りを目的として、徳川家茂の文久の改革の一環として設置された京都守護職に就任したのが、会津藩主の松平容保です。

幕末に権威が失墜した徳川幕府の京都守護職への就任依頼には、容保本人も家老職も就任に躊躇しますが、徳川家への絶対随順を教える会津藩家訓を持ち出された説得により、就任を決意します。

京都守護職としての松平容保は、会津藩士と新撰組を活用して京都で治安を乱す攘夷派の過激志士たちの弾圧に成功し、公武合体政策を模索する徳川家茂の上洛の警護にもあたっています。

その活躍は、光明天皇から直筆の手紙と和歌を下賜されるほどでした。

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