徳川吉宗の墓所はどこにある?

江戸幕府の8代将軍として約30年間在位した徳川吉宗は、宝暦元年6月20に68歳で亡くなっており、遺言により新しい霊廟はつくられず、5代将軍綱吉の霊廟に合祀されています。

徳川の歴代将軍の墓所は、家康の日光東照宮をはじめとして、増上寺や寛永寺といった菩提寺に埋葬され、徳川家最期の将軍である慶喜だけが、谷中霊園に埋葬されています。

仏教を信仰している家系のお墓は菩提寺につくられるのが一般的で、徳川家は浄土宗を信仰する家系ですので、本来なら増上寺が菩提寺となるはずです。

徳川家の歴代将軍たちが埋葬される墓所の場所が複数に分かれている理由や、それぞれの墓所について紹介します。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

徳川家の菩提寺がふたつあるのは、なぜ?

徳川家の菩提寺は、増上寺と寛永寺のふたつあり、それぞれの墓所に埋葬された歴代の将軍は次のようになります。

増上寺の墓所には、二代の秀忠、六代の家宣、七代の家継、九代の家重、十二代の家慶、十四代の家茂が埋葬されています。

また、寛永寺の墓所には、四代の家綱、五代の綱吉、八代の吉宗、十代の家治、十一代の家斉、十三代の家定が埋葬されています。

徳川家で江戸幕府の初代将軍となった家康が、芝の増上寺を菩提寺として決めますが、天台宗の南光坊天海という僧侶が家康に近づき、家康の死後に東照大権現の号を授与させるために朝廷へ働きかけたこともあり、二代目や三代目の将軍となった秀忠や家光が天海を気に入り、寛永寺が創建されています。

そのため、四代の家綱と五代の綱吉の墓所は寛永寺に置かれ、徳川家の菩提寺がふたつになっています。

家康が決めた菩提寺である増上寺がこれに反発したことで、六代将軍以降の墓所が交互につくられる慣例が出来上がっています。

享保の改革をなした徳川吉宗の墓所は?

幕府の財政危機を回避するために、質素倹約を推奨して幕府の財政建て直しにあたった徳川吉宗は、新たな墓所を作ることを拒否し、綱吉公の霊廟に合祀するように遺言を残しています。

徳川吉宗は、もともと紀州家の四男で、五代将軍綱吉に見出さされて越前葛野3万石を与えられて大名となれたこともあり、綱吉公の霊廟に合祀するように命じたといわれます。

紀州家の四男で、一生陽の目を見ることがないと諦めていた吉宗が、破格の出世を可能にしてくれた綱吉への感謝の念が、合祀を望んだ理由と考えられます。

徳川吉宗が合祀される綱吉の霊廟は寛永寺にあり、奥の院には宝塔が建立されています。

徳川家の菩提寺は、増上寺と寛永寺?

徳川家は浄土宗を信仰しており、家康は増上寺を菩提寺に決め、遺言により静岡の久能山に葬ったのち、一年が経過した時点で日光東照宮に移されています。

その後、家康に東照大権現という号を授与させるために奔走した天台宗の南光坊天海という僧侶の存在が、寛永寺の創建とふたつめの菩提寺の存在につながっています。

江戸幕府の財政再建を手がけた徳川吉宗は、新たな墓所の設営を拒み、将軍職への出世のきっかけを作ってくれた綱吉公が埋葬される寛永寺の霊廟に合祀することを言い残しています。

質素倹約を推奨した徳川吉宗の墓所は、綱吉公が埋葬された廟に合祀され、奥の院には宝塔のみが建立されています。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

tokugawa-history.comレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする