徳川吉宗が紀州藩主から8代将軍に就任し、それまでに悪化した幕府の財政立て直しと文治政治による幕藩統制の歪みを正すために行った享保の改革の功績から、中興の祖と呼ばれ、「米将軍」の異名を持ちます。
徳川吉宗が「米将軍」と呼ばれたのには、江戸幕府の収入源である年貢には米で賄われており、米価の変動により、その資産価値も変動するため、米価対策に躍起になっていたためです。
徳川吉宗が財政難となった幕府を立て直すために、米価の引き上げをはかると同時に米の収穫量増加のための新田開発を奨励しています。
享保の改革によって財政立て直しを試みた「米将軍」の異名をもつ徳川吉宗の取り組みを紹介します。
徳川吉宗が米価対策に奮闘したのは?
徳川吉宗が「米将軍」という異名をもつほど米価対策に奮闘したのは、貨幣経済が浸透した江戸時代において、幕府は年貢として徴税した米を貨幣にかえて使用するため、年貢が増収となっても米価が下落すれば、その資産価値も下がるため、米価を安定させることが、財政難の解消に繋がると考えています。
「上米の制」により、諸大名の参勤交代の在府期間を半分に短縮する代わりに徴収する米も、米価が下がれば意味がないため、米価の引き上げにも奮闘しています。
「空米取引」を容認して米価の引き上げを狙い、米相場を一定水準以上に支える「買米令」や飢饉に備えるための「囲米」、「廻米制限令」による江戸や大阪への米の流入の防止など、市場から米を引き上げることで、米価の上昇を狙った政策を行なっています。
吉宗のこれらの政策によって、米価は急上昇しますが、上がりすぎた米価は6倍にもなり、江戸での打ちこわしが起こっています。
徳川吉宗の米価対策以外に行った新田開発
徳川吉宗は、収穫により上下する米価対策に奮闘する一方で、新田開発を奨励し、幕府が開発するだけでなく、町人による新田開発も公認しています。
徳川吉宗は、米価の安定と上昇をはかるために米の流通量を抑えようとした政策と同時に、新田開発による米の収穫量増加を目指す矛盾した政策をとっています。
「米将軍」と呼ばれた吉宗の享保の改革の後半では、米価対策に翻弄されることとなっています。
相反する政策を行なったため、一時的には幕府財政を黒字化することはできたものの、その後の財政状況は悪化します。
信用貨幣の流通と米という現物価値に生じる資産の需給ギャップによる価値の調整をはかった吉宗の政策には、それまでの経験則がないために難しいものだったと想像されます。
「米将軍」の異名を持つ徳川吉宗
8代将軍に就任した徳川吉宗は、財政難を抱えた幕府の状況を改善するために、貨幣経済と年貢として徴収する米による資産価値のギャップを解消するための米価対策を試みています。
幕府の収入源となる米の価格を安定あるいは上昇させるために、市場に流通する米の量を調整する政策として「空米取引」や「買米令」によって米相場での米価引き上げを狙い、「囲米」や「廻米制限令」によって市場での米の流通量を調整することを試みています。
その一方で、米の収穫量を増やすための新田開発を町人にも公認していて、一時的には幕府財政を黒字化することに成功しますが、相反する政策による効果は長続きせず、その後幕府の財政状況は悪化の一途をたどり、のちに討幕運動の高まりにつながります。