薩摩藩主の島津斉彬の子として育てられ、13代将軍徳川家定の妻となった天璋院篤姫は、家定の後の将軍職継承のために一橋慶喜を将軍に推すべしという命を島津斉彬から受けていました。
黒船の来航に加えて12代将軍家慶の死去など、江戸幕府の混乱した状況のなかで起きた将軍継嗣問題での一橋派と南紀派の対立に、天璋院篤姫も巻き込まれています。
天璋院篤姫は、一橋慶喜の将軍としての資質に疑問を感じていただけでなく、慶喜の父である徳川斉昭を嫌っていたこともあり、徳川家茂を家定の後の将軍に推しています。
徳川家茂の将軍職就任に関与した天璋院篤姫と家茂の関係や、残された逸話などを紹介します。
徳川家定の御台所となった天璋院篤姫は?
徳川家定の御台所となった天璋院篤姫は、薩摩藩島津家の一門である今和泉領主の島津忠剛とお幸の間に生まれ、島津本家の島津斉彬の養女となり江戸藩邸に入っています。
その後、近衛忠煕の養女となり、徳川家定の正室となり大奥へ入り、島津斉彬の命を受けて将軍継嗣問題に関わることになります。
徳川家定の死後、徳川幕府の公武合体政策の進行に伴い、薩摩藩は天璋院に帰国を打診するものの、天璋院自身が江戸での暮らしを選択しています。
天璋院篤姫は、徳川家茂の正室となった和宮と嫁姑の関係にあたり、出身の違いからの生活習慣や価値観の違いで不仲だったともいわれますが、勝海舟の「海舟座談」によれば、のちに和解したとも記されています。
徳川家茂と天璋院篤姫の関わりには?
薩摩藩主の島津斉彬の養子となって第13代将軍徳川家定の正室として嫁いだ天璋院篤姫には、家定の後継に一橋慶喜を擁立しようとする島津斉彬の命を受けている一種の政略結婚だったと考えられます。
しかし、天璋院篤姫は一橋慶喜の将軍としての資質に問題を感じ、最終的には南紀派の井伊直弼らが擁立する徳川家茂を次期将軍として推しています。
御所暮らしをしていた和宮が徳川家茂のもとに嫁ぎ、その人柄から家茂に惹かれたように、天璋院篤姫も家茂の思いやりのある資質のために可愛がっていたようです。
第二次長州征討に出向いて病に倒れた徳川家茂の身を案じて天璋院篤姫が書いた手紙も残されており、天璋院にとっての家茂は息子のような存在だったと考えられます。
第14代将軍徳川家茂が誕生した影の功労者だった天璋院
病弱だった徳川家定の御台所として嫁いだ天璋院篤姫には、家定の次の将軍に一橋慶喜を擁立しようとする義父にあたる島津斉彬の命を受けていました。
天璋院篤姫は、一橋慶喜には将軍としての資質に問題を感じていたうえ、徳川斉昭に対する嫌悪感からも、最終的には井伊直弼らが擁立する徳川家茂を次期将軍に推しています。
天璋院篤姫にとって徳川家茂は、可愛い息子のような存在だったと考えられ、家茂の上洛の際に体を気遣った手紙も残されています。