徳川秀忠が側室を持たなかったのは?女性関係は?

初代徳川家康の後を受け継ぎ二代将軍となった徳川秀忠は、大御所家康の威光に影響を受けながら、幕府の基盤を固めるための法整備や体制強化に功績を残しています。

将軍職継承についても、血統継続を維持するために三人の弟を尾張、紀伊、水戸の三藩に置き、徳川御三家を設置して、継嗣問題の対策を整えています。

戦国時代から江戸幕府の封建制度においては、武将の跡継ぎへの問題解消を目的とした正室以外に多くの側室を抱えることが一般的でしたが、徳川秀忠には正式な側室がいません。

将軍職継承のための徳川家体制の強化をはかった徳川秀忠に、正式な側室がいなかった理由などを紹介します。

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徳川秀忠の正室には?夫婦仲は?

正式な記録上では、徳川秀忠の正室には、浅井長政とお市の方の三女として生まれたお江が記され、秀忠の6歳年上で三度目の結婚にあたります。

お江は、大河ドラマにも取り上げられるほど、織田信長の姪にあたる関係性から波乱万丈の人生を歩んだ女性で、史料にも嫉妬深く気の強い性格が残されています。

徳川秀忠とお江との間には、七人の子供が生まれており、現代の感覚では、夫婦関係は密で、夫婦仲も良好だったと推測されますが、大奥女中の静の存在からは、お江が側室の存在を認めなかったためと考えられます。

織田信長の姪にあたるお江は、気性の荒い性格に加えて、嫉妬深い性格であったといわれており、静の存在が発覚した際には大変な事態となっています。

徳川秀忠の女性関係には?

徳川秀忠のお江との結婚の前には、わずか6歳だった小姫との縁組があり、小姫の実父織田信雄と養父豊臣秀吉との関係性が婚礼の前にこじれたために破談になり、実際の婚姻に至っていませんが、小姫の関係性から、お江を継室とする史料もあります。

徳川秀忠の女性関係は、歴代将軍の中では淡白だったと考えられますが、正式な側室を持っていませんでしたが、正室のお江以外の女性との間の子供が江戸城の外にいました。

徳川秀忠が手をつけたお静は、将軍秀忠の乳母である大姥局の侍女として働く女性で、秀忠との関係がお江に知られると、江戸城に居られず、竹村助兵衛の保護を受けています。

お江は、江戸城をでたお静を許さず、その行方を探させ、生まれた男児の引き渡しまでも要求し、お静をかばった見性院がその要求を排除しています。

見性院のお江に対する対応には、姑にあたる家康の要請があったとされ、お江の嫉妬深い性格と気性の荒さが、徳川秀忠が側室を持つことはもちろん、認めることができなかった理由のようです。

徳川秀忠に正式な側室がいなかったのは?

徳川家将軍職就任者の中で、正式な側室がいなかったとされる徳川秀忠は稀な存在で、正室のお江との間に七人の子供をもうけているため、将軍継嗣には問題がありませんでした。

世継ぎ問題を抱えないために、複数の女性を抱えていた歴代将軍の置かれた時代背景には珍しく、正式な側室を置かなかった徳川秀忠は、恐妻として君臨したお江に対する配慮だったのか、夫婦仲が良好だったための結果なのか、というのが現代的な解釈です。

徳川秀忠と大奥女中のお静との関係を知ったお江の執拗な対応には、嫉妬深さと気性の荒さが推測でき、その影響を勘案した結果として、徳川秀忠には側室がいなかったと考えられます。

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