徳川吉宗と天保の改革の関わり

長く続いた戦国時代から、戦乱のない江戸時代も中期を迎える頃には、幕府の贅沢三昧と放漫な政権運営によって、財政危機に直面します。

そのため、幕政改革として8代将軍徳川吉宗による「享保の改革」、老中首座松平定信による「寛政の改革」、老中首座水野忠邦による「天保の改革」といった三大改革が実施されています。

それぞれの改革が実施された時期や背景に違いがあるため、類似する点も多いものの、それぞれの特徴を有しています。

徳川吉宗にはじまった江戸時代の幕政改革のうち、天保の改革を重点的に紹介します。

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徳川吉宗と孫の松平定信による幕政改革

徳川吉宗が行なった享保の改革は、幕府の財政再建のために、質素倹約を中心とした支出削減をはかり、年貢の徴収率と新田開発による幕府収入の増加をはかる財政再建を目指した政策を施しています。

享保の改革で、一時的に財政状況の好転した幕政でしたが、その後、貨幣経済の農村部への浸透により階層分化が進み、農業労働力の低下を招き、農民の都市部への流入による打ちこわしなどが頻発し、天明の飢饉が発生したことで、改革の必要に再度迫られます。

そこで、老中首座松平定信が指揮をとり、それまでの重商主義を改め、都市部に流入した農民の帰郷を促して農村復興と社会政策に重点を置いた寛政の改革が行われます。

寛政の改革以降、階層文化に歯止めはかからず、地主と小作人の関係が広がり、農村での暮らせない農民の都市部への流入も増加し、海外の脅威も現実味を帯びてきます。

しかも、天保の飢饉により、米価や物価の高騰につながり、都市部での打ちこわしが頻発するようになり、3回目となる天保の改革が実施されることとなります。

天保の改革で行われたのは?

享保の改革と寛政の改革では、徳川将軍家の家系である8代将軍徳川吉宗と孫の松平定信によって主導され、いずれも藩主として財政再建を行なった実績を抱えて政策を打っていますが、天保の改革を主導したのは、将軍家の家系ではない老中首座水野忠邦が主導して行なっています。

享保の改革と寛政の改革を模範とした財政緊縮の政策のため、「人返し令」による農民の強制的な帰郷を命じ農村対策を図りますが、有意な効果を得られていません。

また、経済の安定化を図るための物価対策として、株仲間による市場の独占支配を解消するために「株仲間解散令」を出しますが、流通の混乱を引き起こし、物価をさらに上昇させてしまいます。

一方で、倹約令による景気の引き締めを図り、幕府の財源対策を行ない、財政基盤強化のために、江戸や大阪の領地を幕府直轄地とする「上地令」を出すものの、家臣たちの猛反発につながります。

これにより、水野忠邦が失脚することとなり、天保の改革は江戸の三大改革の中でも、最も効果を上げることができなかった失策といわれています。

徳川幕府で行われた三大改革の成果は?

徳川幕府の財政危機を感じた徳川吉宗が手掛けた「享保の改革」から、松平定信が行った「寛政の改革」、そして、最も評価の低い結果となった「天保の改革」があります。

いずれの改革においても、幕府の贅沢三昧の生活による財政状況の悪化に、大凶作による飢饉が重なり、米価や物価のコントロールが効かなくなるといった状況の改善が必要となることは、同様です。

享保の改革や寛政の改革においては、農村の復興や財政状況の一時的な回復をみせたものの、天保の改革では、状況が改善したとはいえない成果となっています。

天保の改革を指揮した水野忠邦の幕政の経験の無さと政策への知識不足が指摘されています。

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