徳川吉宗が輸入を許可した動物は?洋書は?

徳川吉宗が将軍職に就任する頃には、それまでの徳川家による幕府統治にさまざまな矛盾が生じ、幕政の立て直しのために、享保の改革を実施しています。

江戸幕府の8代将軍となった徳川吉宗は、約30年にわたり将軍職として、幕政の立て直しのためにさまざまな政策を打ち出しています。

徳川吉宗が行なった政治には、相対済し令の発令や目安箱の設置など、さまざまな政策を打ち出し、その後の江戸幕府の財政崩壊の危機を回避し、学問や医療の分野の発展にも寄与しています。

徳川吉宗は実学を重視し、それまで禁止されていた漢訳洋書の輸入を一部緩和したり、象や馬の輸入を行なっています。

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徳川吉宗が輸入したものは?

徳川吉宗が輸入を一部緩和して許可した漢文に翻訳されたヨーロッパの書物は、その後の学問の発展にもつながったと考えられています。

それまでは、キリスト教の流入を阻止するために、ヨーロッパの書物の輸入は全て禁止されていましたが、実用書に限って輸入を許可しているのも、実学を重視した吉宗の判断を象徴しています。

また、吉宗が輸入を許可したもので特徴的なのが、国内の馬よりも大型の海外の馬を輸入しており、また、象を江戸に連れて来させています。

享保13年の6月に、今のベトナムから中国の貿易商によって長崎にオスメス2頭の象が連れてこられ、オスの象が吉宗の命を受けて将軍家に献上されることとなった記録があります。

将軍家に献上されたベトナムから輸入された象

ベトナムから輸入され長崎に到着した2頭の象は、メスの象は長崎の十善寺で飼育され、オスは長崎に到着の翌年に将軍徳川吉宗に献上するため、長崎から大阪、京都を経由して江戸に入っています。

京都では、中御門天皇の上覧があり、その際官位が必要となったために、象に「広南従四位白象」の官位が与えられたと江戸名所図会に記されています。

その後、一日3里から5里を歩き江戸に享保14年の5月末ごろに到着し、江戸入府のため六郷川を渡すために、近隣の村に船橋の製作命令が伝えられています。

象は、しばらく浜離宮で飼育されるものの、日々かかる飼料代や世話をする手間や、番人が殺されるなどの事故が起き、民間に払い下げられ、押立村の平右衛門をはじめとした三名の案で、象の糞を薬として販売したり、象舎にくる見物客へ饅頭を販売するなどして大儲けしたといった逸話が残されています。

徳川吉宗の命令で江戸に連れてこられた象は、異国の地で孤独に死ぬこととなり、皮をはがれ、頭蓋骨と牙、鼻の皮が源助に与えられ、中野宝仙寺に「馴象之枯骨」として伝えられます。

徳川吉宗が輸入を許可したことで進んだ学問?

徳川の江戸幕府は鎖国をしていたため、海外との貿易は長崎の出島でのみ行われていて、輸入品にもさまざまに規制がかけられていました。

徳川吉宗が、それまではキリスト教の流入を阻止するために輸入を禁止していた漢訳洋書の実用書に限って輸入を許可したことで、のちの学問の発展にも貢献する結果となっています。

また、海外の馬の馬体が大きいことに注目して、馬を輸入したり、象を献上させたりもしています。

いずれも徳川吉宗の実学を重視した判断による輸入の一部緩和と考えられます。

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