徳川慶喜は、大政奉還を決断した徳川幕府最後の征夷大将軍として知られますが、リーダーとしての評価は、二分しています。
第9代水戸藩主徳川斉昭の七男として小石川の水戸藩邸で生まれた徳川慶喜は、幼少期からその優秀さは幕府でも有名で、12代将軍徳川家慶の命により徳川一族の一橋家の養子となっています。
ペリーの黒船来航による混乱の中、将軍家慶の死去に伴い、慶喜は後継者問題に巻き込まれ、14代将軍候補となるものの、井伊直弼の安政の大獄で処分を受け謹慎生活を余儀なくされます。
禁門の変での幕府と長州藩の戦いに勝利したのち、14代将軍家茂の死去を受けて、15代将軍となり、大政奉還を決断した徳川慶喜について紹介します。
徳川慶喜が15代将軍に就任した前後の情勢は?
井伊直弼の日米通商条約調印に対する発言により謹慎処分を受けた徳川慶喜ですが、桜田門外の変により処分がとかれ、将軍後見職として影響力を及ぼします。
文久の改革での朝廷とのやり取りを通じて、慶喜の力を強め、禁門の変では長州藩との戦いに勝利し、猛将ぶりも発揮しています。
その後、尊皇攘夷派による薩長同盟が結ばれ、武力による倒幕運動が強まるなか、14代将軍家持の死去を受けて、徳川慶喜が15代将軍に就任します。
徳川慶喜が15代将軍という日本のリーダーとなった時期の日本国内では、新政府軍と徳川幕府軍の背後に、それぞれイギリスとフランスがついており、内乱が起これば、いずれが勝利したとしても、イギリスあるいはフランスの植民地支配の可能性が秘められた状態にありました。
徳川慶喜が決断した大政奉還とは?
徳川慶喜が決断した大政奉還とは、江戸幕府の征夷大将軍がもつ政治の実権を、幕府から天皇に戻すというもので、江戸幕府の終わりを意味しています。
これには、前述した武力による倒幕を画策する新政府軍と徳川幕府軍の内乱の危険性と、それぞれの背後にいるイギリスとフランスの存在が、日本が植民地化される危険性を孕んでおり、大政奉還することにより、双方が戦う必要をなくす判断を徳川慶喜がリーダーとして判断したといえ、偉大な功績と評価されています。
しかしながら、大政奉還後の実質的な政治のリーダーが徳川慶喜だったために、戊辰戦争が勃発し、新政府軍と徳川幕府軍が戦うことになります。
禁門の変で猛将ぶりをみせた徳川慶喜が、戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いに指揮官として戦場に赴くものの、慶喜は戦うことなく江戸に逃げて幕府軍が敗戦を期したことにより、慶喜のリーダーとしての評価を大きく下げています。
結果的には、慶喜の逃走により、内乱は早期に収束され、イギリスやフランスによる日本の植民地化の動きを回避できたともいえます。
徳川慶喜のリーダーとしての評価の違いは?
長く続いた江戸幕府がもつ政治の実権を幕府から天皇に戻すという大政奉還を実行し、江戸幕府を終わらせた徳川慶喜のリーダーとしての判断は、新政府軍と徳川幕府軍の戦乱とそれに乗じたイギリスやフランスといった外国からの植民地支配を狙った脅威をかわしたことで、偉大な功績と評価されています。
しかしながら、戊辰戦争の勃発により、新政府軍と徳川幕府軍の戦いは避けられず、鳥羽伏見の戦いを指揮官として戦場に向かった慶喜が、江戸へと逃げ帰ったことで、大政奉還の評価を打ち消して余りある低評価ともなっています。
いずれにせよ、徳川慶喜の大政奉還は、今の日本につながる政治判断を下したといえ、偉大な功績といえます。