徳川吉宗が開設した養生所とは?何をした場所?

現代の日本では、国民皆保険による患者の負担軽減を図った医療機関の利用可能な制度が確立され、医療技術の水準も日々向上が図られていますが、江戸時代の医療は違います。

江戸時代の医療は、江戸城や宮廷の特権階級での医師の診察や処方薬による治療が可能だったものの、一般庶民にとっては医師の診察を受信することは敷居の高いものでした。

特に、貧乏な庶民や独身で看病してくれる人がいない庶民、家族全員が病気を患っている庶民を治療してくれる医師や施設は存在せず、自宅で療養するしか方法がありません。

目安箱に投じられた一通の訴願によって、徳川吉宗が誕生させた江戸の一般庶民のための医療施設となった「小石川養生所」を紹介します。

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「小石川養生所」の誕生のきっかけは?

「小石川養生所」の誕生のきっかけは、徳川吉宗が設置した目安箱に、小石川の医師小川笙船が、医師の診察を受けることができない江戸庶民の命を守りたいという一通の訴願です。

小川笙船の訴願は、徳川吉宗に直接届き、吉宗は直ちに町奉行の大岡忠相に「施薬院」の設立の検討を命じており、わずか1年で養生所を開所されています。

小川笙船が望んだ江戸庶民のための医療施設は、無料で利用できることや医師の診察を受けて適切な漢方薬の処方を受けられるようにしてほしい旨が記されており、「小石川養生所」は、小川医師の願い通り、食事や衣服などの生活の心配をすることなく庶民が無料で受診できる施設となっています。

黒澤明監督により映像化された「赤ひげ」は、徳川吉宗が開設した養生所を舞台として小川笙船をモデルに主人公が設定され、最近ではNHKの時代劇ドラマとしても放映されています。

「小石川養生所」は、どんな場所だったのか?

「小石川養生所」は、前述のように、小川笙船の投書をみた徳川吉宗が、町奉行の大岡忠相に命じて小石川御薬園の園内に作られた医療施設で、40人の入院患者の受け入れが可能となった施設で、内科、外科、眼科といった診療科目を提供しています。

養生所の所長には、目安箱に投書した小川笙船医師が務め、診療には小川医師をはじめとして、林良適ら数人の医師があたっています。

江戸庶民の中でも、収入の少ない貧しい人や看病を必要とする独身の患者など、生活困窮者を受診対象として施設運営がなされ、入所希望者の入院については、町奉行所が審査を行い、入院の可否を決定しています。

入院した患者の治療費はもちろん、食事や衣服などの生活費までの援助が受けられる好待遇のため、開設当初には、新薬の実験台にされるといった噂などが広まるほど江戸庶民に胡散臭く感じられ、患者が集まっていませんでしたが、次第に評判が広がり、施設拡張が必要なほど利用者が増えています。

小石川養生所は、明治政府が漢方薬を中心とした医療ではなく西洋医学を採用するまでの約140年間活用され、明治維新と共に廃止され、現在では、小石川御薬園は東京大学の教育実習施設として残っています。

徳川吉宗が誕生させた小石川養生所

現在の日本では国民皆保険による医療制度が確立されていますが、江戸時代には一般庶民では幕府の医師による診療を受けることが難しく、特に貧しい庶民が漢方薬を処方してもらうことができない状況でした。

庶民の健康を守るために、無料で診察を受けられる施設の開設を求めた訴願を、小石川の小川笙船医師が、徳川吉宗の設置した目安箱に投書します。

これにより、それまで江戸城や宮廷に献上されるための薬を製造していた御薬園を拡大して、庶民が診療や治療を受けられる養生所が設立され、それ以降の日本での病気の治療に対する医療制度の原点ともなっています。

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