徳川吉宗が行なった幕府政治での政策とは?

江戸時代中期を迎えて将軍職に就任した徳川吉宗は、それまでの幕府財政の危機的状況を回復させた功績から中興の祖と呼ばれています。

徳川御三家の紀州藩第2代藩主の徳川光貞の四男として生まれ、5代将軍綱吉に見出されたことで、紀州藩第5代藩主を務め、その後江戸幕府で8代将軍に就任しています。

約30年間にわたって幕府政治に携わった徳川吉宗は、のちに享保の改革と呼ばれるさまざまな政策を打ち出しています。

徳川吉宗が紀州藩主として行った経験を活用して、水野忠之を老中に任命して行った財政再建のための政策を紹介します。

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徳川吉宗が財政再建のために行った政策には?

徳川吉宗が幕府政治で行った政策は、年代順に、相対済し令、目安箱の設置、質流れ禁止令、上げ米、定免法、足高の制、新田開発、堂島米市場の公認、元文丁銀の鋳造、公事方御定書、漢訳洋書輸入緩和といったものが挙げられます。

定免法や上げ米によって幕府財政収入の安定化をはかり、新田開発を推進させ、足高の制の導入による官僚の人事制度を改革しています。

また、公事方御定書の制定によって、司法制度の改革をはかり、江戸の町に多発する火事対策に火消しを設置するなど、財政の立て直しの政策を施しています。

財政の立て直しの一方で、目安箱の設置による庶民の声を幕府政治に取り入れ、小石川養生所の設立を行い、のちの蘭学発展のきっかけともなる実用書の洋書輸入を一部解禁するなども行っています。

徳川吉宗が行なった幕府政治の政策の評価は?

徳川吉宗は幕府政治にあたる前、紀州藩主時代に浪費と人件費、そして天災が原因となった財政問題を解決した経験があり、将軍職に就いても、同様の手法を用いて財政再建を目指したといえます。

しかしながら、幕府と紀州藩では、組織の規模に違いがあるため、財政難の要因は複雑で、財政支出の削減や家臣すべてに質素倹約を強要すれば、経済不況を招いてしまいます。

それに加えて、新田開発による米の増産をはかる政策を実行しながら、米価を上げようとしていますから、経済政策としては無理があります。

結果的に、江戸での倹約政策により、尾張藩に人とカネが流れ、経済の中心地が名古屋となる基盤を作られますが、参勤交代による散財により名古屋から江戸へカネが逆流するなどの副次的な結果ももたらしています。

色々な評価がされる徳川吉宗が行なった幕府政治での政策は、15代にわたる徳川家の歴代将軍の中でも、自ら政務をとった将軍として傑出した人物だったといえます。

徳川吉宗が行なった幕府の立て直し

徳川吉宗が行なった幕府政治の政策は、それまでの幕府財政の立て直しのためのもので、財政収支の安定化をはかる定免法や上げ米、新田開発を行なっています。

町奉行の大岡忠相の登用にみられる足高の制の導入による官僚の人事制度の改革や、公事方御定書による司法制度改革なども行なっており、歴代の将軍職の中でも、自ら政務をとった人物といえます。

徳川吉宗が行なった享保の改革と呼ばれる政策によって、のちの蘭学発展のきっかけや、医療制度の改革ともなった小石川養生所の設立などの功績も残しています。

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