徳川家定が直面した継嗣問題とは?

江戸幕府における将軍職の後継者には、将軍家と血のつながりが近い尾張、紀伊、水戸といった御三家か、田安、一橋、清水といった御三卿であることが条件とされていました。

御三家か御三卿ではない徳川や松平では、将軍職の後継者として選ばれることはありません。

将軍後継者を誰にすべきかという将軍の継嗣問題が持ち上がったのは、12代将軍の徳川家慶の後継と、徳川家定の後継者を決める際に起きています。

特に、生まれつきの障害をもって病弱だった13代将軍となった徳川家定には子供がなく、次期将軍の選定には、一橋派と南紀派と呼ばれる二つの派閥が対立しています。

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将軍継嗣問題が発生したのは?

徳川家慶には27人もの子供がいたにもかかわらず、徳川家定以外の子供の大半は10歳未満で、他の子供も20歳未満で亡くなっています。

徳川家慶の四男として生まれた徳川家定には、脳性麻痺の障害があったために、父家慶が次期将軍継承者とすることに不安を感じます。

それにより、徳川家慶は、内々に一橋慶喜を次期将軍候補者とする画策をはかりますが、老中阿部正弘の反対により断念しています。

徳川家慶の後継者として第13代将軍となった徳川家定は、ペリーの黒船来航から不平等条約の締結と混乱する幕政のなかで、もともと病弱だった家定の病状は悪化し、家定に子供がいなかったことも、徳川家慶が懸念した将軍継嗣問題が現実となります。

徳川家定の後を受け継ぐ将軍継嗣問題

徳川家定の病状の悪化は、次期将軍の継嗣問題として一橋派と南紀派の対立が起こります。

徳川家定の後を引き継ぐ将軍の選択には、一橋慶喜を推す徳川斉昭と阿部正弘、島津斉彬の一橋派と、徳川家茂を推す井伊直弼と本寿院の南紀派が対立し、将軍継嗣問題が起こります。

結果的には、南紀派が推す徳川家茂が第14代将軍となりますが、これには、阿部正弘と島津斉彬の二人が相次いで亡くなったために一橋派の勢力が急激に衰え、南紀派の井伊直弼が大老となり、徳川家茂の将軍継承を押し切ったためと考えられます。

徳川家定の継嗣問題で家茂の対立候補となった一橋慶喜は、大老井伊直弼を日米修好通商条約締結に関して問い詰めたことで謹慎処分によって弾圧されますが、桜田門外の変で井伊直弼が亡くなったことで、処分が解除されています。

約5年間将軍として幕政をつかさどった家定は、障害による言葉の不自由や言動の不安定はあったものの、アメリカ総領事のハリスによれば、その態度は堂々たるものだったとする記録も残されています。

障害の程度とさまざまな問題を抱えた家定に翻弄された幕閣や幕臣など多くの人々がいますが、最も継嗣問題で苦しんだのは家定だったかもしれません。

徳川家定をめぐって苦悩した徳川家慶と老中たち

徳川家の将軍職継承に関して継嗣問題が起きないように、3代将軍家光が幕府支配制度の確立をなしていましたが、13代将軍に就任した徳川家定には、生まれつきの障害と子供がいなかったことで、父にあたる家慶、家定の後継将軍を決めるために関わった老中阿部正弘や井伊直弼などの幕閣と幕臣たちの対立が生まれています。

ペリー来航、徳川家慶の急逝、徳川家定の生まれつきの障害による将軍としての資質の問題、家定に子供がいなかったことなど、幕末の混沌とした状況のなかで将軍継嗣問題が起こっています。

将軍職継嗣問題は、徳川家茂の将軍就任という決着を迎えますが、この間の幕政運営と外交交渉の結果を主導した大老井伊直弼や関わった家臣や幕臣の間には、さまざまな遺恨を残したといえ、桜田門外の変につながっています。

約300年に及ぶ徳川家の支配体系を揺るがした家定をめぐる継嗣問題は、その後の明治維新という時代の転換となる序章段階だったともいえ、間接的に明治維新に貢献したともいえます。

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