徳川秀忠と松平忠輝の関係性と関わりには?

徳川家康と側室の茶阿局の間に生まれた六男の松平忠輝は、二代将軍となった徳川秀忠とは対照的な人生を送っています。

徳川家康が本陣を構える関ヶ原の戦いに遅れ、合戦が終わって到着する失態したことで、徳川秀忠は世間から無能呼ばわりされ、松平忠輝は幼少の頃から家康に疎んじられています。

三男と六男という兄弟でありながら、二代将軍となった徳川秀忠と、実の父親に疎んじられ二代将軍となった兄に改易させられた松平忠輝について紹介します。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

松平忠輝という人物は?

松平忠輝は、徳川家康と側室の茶阿局との間に六男として江戸城で生まれ、茶阿局の身分が低かったため、家康が忠輝の誕生を喜ばず、生涯嫌っています。

徳川家康が松平忠輝と会ったのは、江戸城での誕生ののちには、慶長三年の7歳の時で、家康が忠輝の容貌を嫌ったとされる記録が「藩翰譜」や「野史」に残されています。

越後の高田藩主に封ぜられ、越後の福島城に入り大名として名を連ねる松平忠輝は、家康からの大坂冬の陣での命令を不服として高田城を出ず、翌年の大坂夏の陣では遅参したうえ、手柄を上げることができず、家康と松平忠輝の不仲を決定的なものにしています。

父家康の死後、二代将軍を引き継いだ徳川秀忠も家康の意向を引きずり、松平忠輝だけは拝謁を許さず、のちに改易を命じ、忠輝は、正室の五郎八姫と離縁し、五郎八姫は仙台城へ帰国しています。

徳川秀忠が松平忠輝に改易を命じた訳は?

徳川秀忠が弟である松平忠輝に改易を命じたのには、大坂夏の陣で総大将を命じられていたのに遅れをとったこと、大阪進軍中に軍列を追い越したとし、徳川秀忠直属の旗本、長坂信時を斬り殺したこと、大坂夏の陣での戦勝を朝廷への奏上を病気を理由に出向かず、船遊びに興じていたことの三点を理由にあげています。

それに加えて、松平忠輝の正室である五郎八姫がキリシタンで、忠輝もキリスト教に近い状況にあり、莫大な財源を背景として権力をもった大久保長安との関係なども、徳川秀忠が忠輝を警戒した隠された理由ともいわれます。

改易させられた忠輝を救うために、少ない味方の一人である茶阿局が家康の側室などに依頼するものの受け入れられず、兄の秀忠に改易を命じられた忠輝は、金剛證寺に入り、幽閉先の諏訪高島城で92歳の人生を閉じています。

徳川家康に嫌われた六男の松平忠輝

徳川秀忠は、徳川家康の跡を継いで二代将軍に就任するものの、家康の意向を伺いながらの幕政運営を強いられ、六男の松平忠輝も家康の意向から、邪険に扱われた人生を送っています。

松平忠輝には、父家康から疎まれた形跡が「藩翰譜」や「野史」などの資料にも多く残され、忠輝本人の大名としての粗暴な振る舞いや暴挙なども嫌われる原因を作っています。

生母である茶阿局の身分や容貌といったことから、父の家康から誕生直後から嫌われ、不遇な生涯を送った松平忠輝ですが、織田信長、豊臣秀吉、そして家康へと受け継がれた野風の笛を渡されており、家康との不仲は解消されていたと一部ではいわれます。

真実はわからないものの、生涯実の父親から嫌われた人生ではないとする史料が発見されることを、今後に期待したいものです。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

tokugawa-history.comレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする