徳川家重と大岡忠光の関わり

徳川家重は、徳川幕府8代将軍徳川吉宗とお須磨の方の長男として生まれ、病弱だったにも関わらず、幼少期から大奥に入り浸り飲酒を重ねたため、脳性麻痺を発症しています。

脳性麻痺による言語障害のため、徳川家重が発する言葉を理解できたのは、小姓として仕えていた大岡忠光しかいなかったといわれています。

大岡忠光の生家は代々300石の小身の旗本で、南町奉行所の奉行だった大岡忠相と同族でしたが、家重の小姓となったことで、その後異例の出世を遂げています。

障害を抱えた徳川家重と、家重が最も信頼した家臣として側に置いた大岡忠光との関わりを紹介します。

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江戸幕府9代将軍徳川家重という人物は?

8代将軍徳川吉宗の長男として生まれ、江戸幕府9代将軍となった徳川家重は、「小便公方」と揶揄されるほど頻尿持ちで、四六時中歯ぎしりをしていたのも、脳性麻痺による障害の症状と考えられます。

特に、徳川家重の脳性麻痺による言語障害で、その発する言葉を理解し、気持ちを汲めたのが、小姓として支える大岡忠光だけだったといわれ、家重は何事も大岡忠光頼りでした。

そのため、徳川家定が将軍に就任した際、父吉宗が廃止した側用人政治を復活させ、上総国勝浦の1万石の大名に取り立て側用人として傍に置いています。

徳川家重の身体的障害と能楽などの芸事を好んだ道楽者の側面から、父吉宗を悩ませたともいわれる反面、幕政運営における人材活用には才能を見せ、側用人として重用した大岡忠光や田沼意次の活用にもその一端がみられます。

徳川家重と大岡忠光との関係は?

徳川家重と大岡忠光との関わりは、忠光が14歳で将軍吉宗に拝謁し、家重の小姓として召し出されたことに始まり、それ以降終世、家重の傍で支えています。

大岡忠光は、小姓から小姓組番頭格となり、側衆、御用取次と昇進し、度重なる加増で、上総国勝浦を領したのち、徳川家重の若年寄を経て側用人となっています。

異例ともいえる忠光の出世には、徳川家重の不自由な言語機能から発せられる言葉や心情を唯一理解できた特別な事情が影響したといえますが、家重の忠光への信頼は主従関係だけではない真の友人関係も、残された史料や史実からも読み取れます。

徳川家重と大岡忠光の関係について、オランダ商館長のイサーク・ティチングが、「家重は真の友人であり家臣である忠光をもっている」といった趣旨の記録を残しています。

徳川家重にとって、最大の良き理解者であり無二の寵臣だった大岡忠光が48歳で亡くなると、家重は将軍職を息子家治に譲り、大御所となっています。

障害を抱えた徳川家重を支えた大岡忠光

脳性麻痺と思われる障害を抱えていた徳川家重は、不明瞭な言語を理解してくれ信用できる寵臣の大岡忠光を重用し、側用人政治を復活させています。

身体的な障害がありながらも、家臣の能力を見抜く能力には長けていた家重は、人材活用の面でその才能を生かした幕政運営を行なっており、大岡忠光を側近に置き、田沼意次も見出しています。

父徳川吉宗や家臣たちから暗愚だと不安視された徳川家重は、大岡忠光の側近としての働きによって第9代将軍職が遂行されたといえるかもしれません。

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