徳川綱吉がつくった湯島聖堂とは?

東京都文京区湯島一丁目にある湯島聖堂は、大正11年に国の史跡に指定された江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟です。

江戸幕府5代将軍徳川綱吉が儒学の振興をはかるために、上野の忍岡にあった林羅山の私邸にあった廟殿と私塾を湯島へ移設したものが湯島聖堂の始まりです。

孔子廟とは、中国で今から2500年ほど前に活躍した儒教の創始者である孔子を祀る霊廟で、湯島聖堂もその一つで、日本国内には、栃木の足利学校、佐賀の多久聖廟、長崎の孔子廟などもあります。

徳川綱吉が、幕府の体制強化のために、封建制下にある武士たちに儒学を広めようとした湯島聖堂を紹介します。

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湯島聖堂をつくった徳川綱吉の狙いには?

湯島聖堂は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉が、上野忍岡の林羅山の私邸につくられていた孔子廟と儒学の私塾を現在の湯島へ移転させ、霊廟の建物や周囲の外構設備も立派なものに作り変えています。

林羅山によって「先聖殿」と名付けられた霊廟を「大成殿」と改称し、付随した建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改められ、現在のように湯島聖堂と呼ばれています。

徳川綱吉による湯島聖堂の移設には、徳川幕府の体制を強固なものとするために、武士たちに儒学を普及させることを目的としており、八代将軍吉宗の時代で工業や医学を重視した学問への変化を経て、老中松平定信が儒学を再度担ぎ出したことで、湯島聖堂が改築改修され、昌平坂学問所が開設されます。

そのため、江戸時代から明治時代へと時代が移り変わるなかで、多くの教育機関が湯島聖堂で誕生し、日本の近代教育の礎を築いた場所となっています。

徳川綱吉が建てた建物群のその後は?

林羅山の私邸にあった孔子廟と私塾を、現在の湯島聖堂に移設した徳川綱吉が建てた霊廟や関連の建物は、数回の火災被害にあい再建され、昌平坂学問所として再興されます。

明治時代に入ると、新政府において昌平坂学問所は大学となり、その後文部省が置かれ、閉鎖された大学はのちに筑波大学やお茶の水女子大と移転されます。

大正時代に国の史跡指定を受けた翌年には関東大震災による被災で、江戸時代の様式をそのままに、大成殿などを鉄筋コンクリートで再建されています。

現在の湯島聖堂は、東京の中心部にありながら緑が豊富な都会のオアシス的な存在となっており、日本の学校教育発祥の地となっていることもあり、受験生の訪問が多い場所ともなっています。

徳川綱吉が幕政安定のための教育の場とした湯島聖堂?

現在、国の史跡指定を受ける湯島聖堂は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉が命じて建てられた孔子廟であり、日本の公的教育の始まりの場所といわれます。

徳川綱吉の時代となり、幕政の体制強化をはかるために、家臣の武士たちに儒学を広めることを目的とした場所として、林羅山が私邸に設けていた孔子廟と私塾を江戸の湯島に移転させています。

現在まで続く日本の教育機関の始まりの場所ともなっている湯島聖堂は、時代とともに変遷を遂げながら、現在の史跡となり、都心の中のオアシスのような場所となっています。

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