徳川綱吉と右衛門佐局との関わり

江戸城内での将軍の正室や側室、それに仕える女中や子女たちの私生活を区切った場所として、大奥が家康の時代から存在していましたが、その区画を明確にしたのは二代将軍の秀忠の時と言われています。

テレビドラマや映画にも取り上げられる「大奥」では、大奥女性の御台所、側室、大奥女中、大奥総取締といった身分と立場の争いが繰り広げられています。

江戸時代前期に、天皇の中宮に常磐井局と称して支え、その後江戸に下向し、徳川綱吉のお手付き中臈となった右衛門佐は、大奥で春日局に近い実績を残した女性ともいわれます。

徳川綱吉と綱吉のお手付き中臈となった右衛門佐を通じて、江戸時代にあった大奥と将軍の関わりなどを紹介します。

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江戸城に存在した大奥とは?

江戸時代の江戸幕府初代将軍徳川家康の時代から、江戸城に将軍家の子女や正室、奥女中たちが生活の場とした大奥という区画は、一般の大名家では奥向きというものです。

一般的には、江戸城の大奥は将軍の子孫を残すためのハーレムのように創造されますが、実際には、大奥の女性には将軍の正室である御台所、将軍のお手付きとなった中臈から選ばれた側室、御台所や側室の身の回りの世話を行うための大奥女中が大勢を占め、ドラマや映画で登場する大奥総取締という職名はない役割の女性が存在していたといわれます。

将軍の後継を生むことが正室や側室の最大の役割と考えられ、大奥の寝所への将軍の出入りが勝手に行われることはなく、それなりの手続きとルールが存在していたようです。

多くの女性が江戸城の奥向きの仕事にあたるうえで、さまざまな階級や役職があり、大名同様に女性同士の勢力争いが演じられています。

宮中から請われて大奥に転身した右衛門佐とは?

水無瀬中納言氏信の娘として生まれた右衛門佐は、霊元天皇の中宮、新上西門院に仕えて常磐井局と称され、宮中ではズバ抜けた才女だったために、第5代将軍徳川綱吉の御台所に請われて江戸へ下向し、大奥へ入っています。

徳川綱吉と御台所の信子との間には子供が授からず、信子と側室のお伝の方の勢力争いに、右衛門佐を介入させることで解決させようとしたと考えられます。

徳川綱吉の学問の相手として右衛門佐を近づけたとはいえ、その美貌と京風の雰囲気は綱吉を虜にしたと思われ、御台所の思惑通りに、右衛門佐が綱吉のお手付き中臈となります。

右衛門佐は、その後右衛門佐局と名乗り、初代歌学方として北村季吟、胡春父子を推挙し、住吉具慶が土佐派絵所を開いて土佐派を確立し、江戸文化の強風化を進展させた功績を残しています。

右衛門佐局は、徳川綱吉との間に子供が授からず、将軍生母となることはなかったものの、江戸時代前半における大奥の勢力争いに好影響をもたらし、江戸の文化や文芸に京の雅を取り入れるための一役を担っています。

徳川綱吉と右衛門佐とは?

徳川綱吉と右衛門佐は、5代将軍と宮中から大奥へ下向した御中臈の関係でしたが、右衛門佐が綱吉のお手付きとなります。

徳川綱吉のお手付き中臈となった右衛門佐は、その後右衛門佐局と名乗り、大奥での勢力争いに新風を吹き込み、江戸の文化や文芸にも京の雅を取り入れる功績を残しています。

右衛門佐局は、綱吉との間に子供を授からずに、お手付き中臈でありながら、大奥の事務方のトップである大奥総取締にまでのぼりつめて、春日局と同様に大奥に影響を残しています。

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