徳川綱吉が行なった政策とは?

徳川幕府が家康、秀忠、家光といった三人の将軍によって幕藩体制が整えられ、5代将軍に徳川綱吉が就任すると、政治の基調も武断政治から文治主義へと転換していきます。

徳川綱吉は、堀田正俊を大老に据えて、幕府による農業に携わる農民や農地の直接管理できるように農業政策を重視し、改訂版といえる武家諸法度が発布され、儒学を家臣たちへ広めるために湯島聖堂を建設し、林羅山の私塾を移転させています。

朝廷や天皇の権威を利用しながら、幕府での将軍の権威を高め、徐々に朝礼の儀式を復活させています。

徳川幕府の最盛期を迎える徳川綱吉が行なった政策などを紹介します。

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徳川綱吉が行なった政策には?

徳川綱吉が行なった政策には、「生類憐みの令」、「捨子禁止令」、「服忌令」、「勝手掛老中」の設置、大酒禁令といった法令の発令があげられます。

「生類憐みの令」は、徳川綱吉が犬公方と呼ばれる原因となる法令で、犬ばかりでなく人間をはじめとして、すべての生き物の命を大切にすることを定めたものです。

「捨子禁止令」も、生類憐みの令と同様の意図があり、経済状況などを理由に一向に減らない捨子対策であり、江戸の町での福祉に関する法令のはじまりといえます。

「服忌令」は、喪に服す服喪と穢れを忌む忌引に関することを定めた法令で、朝廷や公家の慣習だった服忌を武士や庶民にも広め、新たな社会規範を作っています。

「大酒禁令」も、飲酒による米の大量消費を抑える目的の側面以外にも、秩序を保った社会を目指した徳川綱吉の思想を反映した法令です。

これらの法令でもわかるように、徳川綱吉の政策には、長く続いた戦国時代と江戸時代初期の命を軽視した武力を背景とした武断政治から、文治主義へと移行をはかっています。

徳川綱吉が儒学に基づいた政策をとったのは?

徳川綱吉が儒学に基づいて前述のような政策をとったのには、前将軍の家綱が、それまで大名から人質を取ることをやめ、大名がなくなった際の殉死を禁じ、武断政治から文治政治への転換をはかったことで、幕府の内外が影響を受けています。

徳川綱吉がそれまでの武断政治から転換した文治政治は、武力を背景とした政治ではなく、「礼儀と人命の尊重」を基本としたもので、「生類憐みの令」がもっとも象徴的な政策です。

徳川家康、秀忠、家光といった将軍が行った武断政治では、大量に主君を亡くした牢人が輩出され、氾濫の危険性や慶安の変や承応の変と呼ばれる反乱が起きたことも、文治政治への転換がはかられた理由です。

徳川綱吉の時代には、江戸幕府の幕政の安定がはかられ、武力を背景とした支配体制から、武士や庶民に儒学という学問を共通認識として広めることで、政治政策による統治をはかろうとしています。

「生類憐みの令」で犬公方と呼ばれた徳川綱吉

徳川綱吉の政策でもっとも有名なのは「生類憐みの令」で、人間をはじめとして、犬や猫に至るまですべての動物の命を大切にすべし、という趣旨の法令です。

徳川家康から秀忠、家光といった三人の将軍によって江戸幕府の幕政の基盤が固められ、幕府による統治体制も武力を背景にしたものから、文治政治への転換が求められた徳川綱吉は、儒学を基にした統治をはかっています。

そのため、徳川綱吉は、林羅山の私邸に設けられた孔子廟と儒学の私塾を、現在の湯島聖堂に移転させ、家臣や武士へ儒学を普及を目指しています。

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