江戸時代の初期には、大雨や洪水、霜などの異常気象や火山の噴火による降灰の影響などでたびたび被害が出て、飢饉が頻発しています。
徳川綱吉が将軍に就任する前、家光の時代にも島原の乱が収束した頃、牛疫や蝦夷駒ケ岳の噴火による降灰などで凶作となり、寛永の大飢饉が起きています。
この大飢饉を受けて、田畑永代売買禁止令を発して、農民の土地の所有権を認めると同時に、農民が簡単に田畑の耕作を放棄することがないような制度を構築しています。
特に、徳川綱吉の時代には、それまでの農業のあり方を根本的に変えるために、勘定吟味役を設置するなどの制度設計を試みています。
徳川綱吉が行なった農業政策は?
徳川綱吉は、勝手方老中と呼ばれる財政専管の職務を作り、勘定奉行の下に勘定吟味役を設置して、年貢の徴収率の公平性と確実な徴収制度をつくります。
それまでの農家の徴税には、戦国時代からの名主地侍の影響が残る土地の有力者が、幕府と農家の仲介にあたっていたため、年貢のごまかしや手心が加えられています。
農村における小自作農が増え始めた状況を鑑み、幕府はそれら小自作農を直接把握し、保護することを目的として、勘定吟味役がその役割を果たします。
自作農が増えることは、農業による経済の発展により商品流通を活性化しますが、大名の財政は悪化するため、幕府発行の流通貨幣量の調整が必要となっています。
江戸幕府が飢饉に直面して行なった農業の政策
江戸時代には、三大飢饉と呼ばれる自然災害の影響による農業での凶作が起き、徳川綱吉は農業の制度的なあり方に、徳川吉宗はサツマイモの栽培などを飢饉対策にするなど、それぞれの対応をみせています。
江戸時代の初期に起きた寛永の飢饉を受けて、百姓が農地の耕作を放棄し都市部への流入を防ぎ、農業の生産性を維持するために田畑永代売買禁止令が出されたことに加え、徳川家綱は、自作農が輩出されることを幕府が直接把握し、公平な徴税を行い、自作農を育成するための勘定吟味役を設置しています。
田畑永代売買禁止令は、明治5年に廃止されるまで名目上の効力を持っていたものの、幕府直轄地の天領以外では、土地の売買が行われており、実質的な効果は立証できません。
江戸時代を通じて全般的に寒冷期だったと考えられ、異常気象による農業の凶作は、幕府財政基盤への影響も大きく、それぞれの飢饉において農業への対策と幕府内での倹約などがすすめられています。
徳川綱吉の農業への関わりは?
徳川綱吉の農業への関わりは、それまでの農家からの徴税のあり方に地侍などの介入を排除し、幕府が直接自作農を把握し育成するための制度を作っています。
そのために、財政専門の役職をである勝手方老中を置き、勘定奉行の配下に勘定吟味役を置くことで、農家を直接指導し管理する制度運営をはかっています。
それまでの、地侍による徴税に不公平や手心が加わることを排除し、農業の凶作による影響を少なくし、市中に流通する貨幣量を調整することで市場経済の活性化をはかろうとしていますが、現実には、あまりうまくいっていません。