犬公方として有名になる徳川綱吉が制定した「生類憐みの令」に対して、徳川光圀は天下の悪法として批判しています。
徳川光圀といえば、長く続いた人気時代劇の「水戸黄門」でもお馴染みのご隠居ですが、ドラマ内でも将軍綱吉との関わりを描いたシーンも登場しています。
ドラマの世界と現実の史実での二人の関係性は多少違いますが、将軍と徳川御三家の一つの当主だった光圀とは、同時期を生きているため、関わりがあります。
徳川綱吉と徳川光圀の二人の関係性や、関わりに関する逸話などを紹介します。
徳川綱吉と徳川光圀との血縁関係は?
徳川幕府5代将軍の徳川綱吉は、3代将軍徳川家光の四男として生まれた徳川家康のひ孫にあたり、水戸藩二代藩主だった徳川光圀は、徳川頼房の三男として生まれた徳川家康の孫にあたります。
3代将軍家光の時代までの武力を背景とした武断政治が、4代将軍家綱の時代から、儒教や法令に基づいた統治をはかる文治政治へと変化します。
徳川綱吉は、徳川家光の四男として生まれ、将軍職後継の可能性は低かったのが、家綱に跡継ぎがなく病に倒れると後継者問題が起き、5代将軍に推したのが、徳川御三家の一つであった水戸藩の徳川光圀で、将軍家に近い血縁を重視する選択を主張して、綱吉の将軍職就任が決まっています。
つまり、徳川綱吉と徳川光圀の血縁上の関係が、家康のひ孫と孫の関係にあり、5代将軍綱吉の生みの親のひとりが光圀だったといえます。
徳川綱吉と徳川光圀との仲は?
徳川綱吉を徳川幕府5代将軍に推した徳川光圀でしたが、将軍就任後の綱吉の「生類憐みの令」に対する庶民の不満が高まり、光圀が綱吉へ「犬の毛皮」を献上して批判し、庶民から評価を得ています。
徳川綱吉の「生類憐みの令」は、犬だけの保護を目的とした法令ではなく、現代の動物愛護法の意図と老人や子供に対する保護など人権配慮を求める内容の法令でしたが、綱吉の時代の倫理観では、一般的な理解を得ることが難しかったようです。
それまでの武断政治から文治政治への転換をはかる綱吉と光圀の方針は似ていたものの、綱吉の文治政治のための政策が、光圀が考える以上に公家的なものだったために、両者に微妙な距離感を生じさせていたと考えられます。
また、将軍専制路線を進めた綱吉の独裁制に対する御三家のひとつとしての光圀のジレンマも感じられ、実子のいない綱吉が後継を決めないことへも光圀が批判することにつながっています。
とはいえ、隠居の身となった徳川光圀を、徳川綱吉が江戸へ呼び寄せたこともあり、それに応じた光圀の対応からも、二人の関係が最悪のものではなかったと想像できます。
徳川綱吉を将軍として誕生させたのが、徳川光圀?
徳川幕府4代将軍家綱に跡継ぎがなく病床に倒れて、次期将軍後継問題が持ち上がった際に、将軍家血縁に最も近い徳川綱吉を次期将軍に推したのが、徳川御三家の一つであった水戸藩の徳川光圀で、5代将軍誕生の生みの親と言えます。
徳川綱吉が将軍職就任後は、綱吉による将軍専制路線を進める独裁化の傾向と、「生類憐みの令」などの政策によって、徳川光圀が考える文治政治とは違っていたために、光圀が綱吉を批判しています。
そのため、両者の仲が極端に悪かったと解釈されそうですが、両者の対応には必要最低限の接触はあり、最悪の関係とまでは言えないようです。