徳川綱吉の最後は?死因は?

徳川幕府5代将軍の徳川綱吉は、流行の麻疹で亡くなったとされていますが、その年齢が64歳であったこともあり、窒息死や殺害などの最後の憶測もされています。

徳川綱吉は、武力を背景とした幕府統治から、儒学や法令に基づいた倫理観による統治体制へ移行しようとし、「生類憐みの令」で庶民からの反発を招き、女性関係だけでなく男性関係にも明るかったといわれ、その最後には殺害という死因もあがります。

4代将軍家綱に跡継ぎがいない状態で亡くなったために、徳川光圀の推挙により将軍職就任が決まった徳川綱吉は、将軍職において独裁化を強め庶民からの反発だけでなく、光圀からの批判を受けるなどしており、その最後を迎えた死因についても、諸説存在しています。

徳川綱吉の最後や死因について、残された徳川実紀や扇草などの史料から紹介します。

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徳川綱吉の公式文書による最後と死因は?

徳川幕府の公式記録といえる「徳川実紀」によれば、5代将軍徳川綱吉は、当時流行していた麻疹に感染して亡くなったとされています。

また、翌日に正室の鷹司信子も亡くなったとされ、このことが綱吉の最後に不自然さを感じさせ、殺害や無理心中などの説を生んでいます。

一説には、麻疹に感染していた綱吉が、正月に餅を食べた時に、餅を喉に詰まらせて窒息死したとも言われています。

いずれも、徳川綱吉の最後を迎えた死因は、正式な記録上は麻疹によるものですが、綱吉と正室の信子が亡くなった日が近すぎることや、大奥の開かずの間の存在が殺害説につながっています。

徳川綱吉の正室信子による無理心中という逸話は?

徳川綱吉の最後となった死因は、前述のように正式には、麻疹によるものとされていますが、綱吉の死後70年を経た頃に出た「翁草」には、正室信子の無理心中という説が浮上します。

徳川綱吉が、次期将軍候補として嫡男がいないため、柳沢吉保に将軍職を継承させようとしたことに、正室信子は、徳川家の血筋が途絶えることを理由に反対しますが、綱吉は聞く耳を持たなかったとされます。

柳沢吉保と側室の染子との寝所での話を知った鷹司信子が、綱吉と柳沢吉保との関係にも怒り、綱吉を刺し殺して自らも喉をついたとされ、大奥にはその時の部屋が開かずの間として残されているという逸話が残されています。

徳川綱吉の最後を迎えた死因は?

5代将軍徳川綱吉の64年の人生最後を迎えた死因は、麻疹によるというのが、幕府の公式記録とされる「徳川実紀」に記されています。

しかしながら、徳川綱吉の正室である鷹司信子が、綱吉の死の翌日に亡くなったこと、「翁草」に残された記述、大奥に残された開かずの間といったことから、正室信子の無理心中という説の逸話が残っています。

徳川綱吉には男色の趣味があり、柳沢吉保の存在が正室信子の感情を逆撫でし、しかも、綱吉が聞く耳を持たなかったために、思い余った信子が無理心中したと言われています。

あくまで正室による無理心中は、逸話のレベルを脱することはなく、徳川綱吉の正式な最後の死因は、麻疹で間違いないと思われます。

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