徳川綱吉の頃の経済情勢は?対策の効果は?

徳川綱吉が5大将軍として幕政をつかさどっていた時代の経済状況は、おおむね好景気だったと考えられ、それまでの武断政治から文治政治への転換がはかられています。

元禄文化が花開いた徳川綱吉の時代は、経済活動が活発であったことを示しており、そのための貨幣の流通量に幕府が関与を始めています。

今では当たり前となっている信用通貨を流通させるシステムを運用させたのが、徳川綱吉の勘定奉行だった萩原重秀で、貨幣の流通量が増加したために、物価上昇を引き起こしたといった悪政の評価も受けています。

徳川綱吉の幕政運営による治世の評価が低いのは、綱吉の晩年におきた奥州の飢饉や元禄地震、浅間山の噴火など、凶作や自然災害などに見舞われた不運も影響しています。

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徳川綱吉が公平な徴税のために行ったのは?

徳川綱吉は農政のあり方を根本的に変え、現在の財務大臣にあたる勝手方老中を作り、その配下に勘定奉行を置き、さらにその下に数名の勘定吟味役を置き、年貢の徴収の公平性と農村における自作農の輩出を直接把握しようとしています。

徳川綱吉による勘定吟味役の設置には、自作農の保護育成と農村経済の発展を促進し、幕府にとっては確実な徴税を可能としています。

農政のあり方を見直したことで、農村経済による商品流通を盛んにし、農工商に携わる庶民は潤うものの、幕府や大名の財政は悪化し、綱吉の時代には新たな財源が必要となっています。

それにより、勘定奉行となった萩原重秀の発案により、幕府発行の金貨銀貨の金銀含有量を減らした信用貨幣の発行で、貨幣流通量を増やしています。

徳川綱吉が行なった経済発展のための政策

徳川綱吉が経済発展のために行ったのは、勘定吟味役の設置による小自作農の輩出の保護と育成で、土地の所有権を承認し、貨幣の流通量を調整した経済への介入です。

それまでの金本位制といえる貨幣価値だった金貨銀貨の金銀含有量を減らし、幕府の信用を背景とした貨幣を流通させることで、市場に流通する貨幣量の調整を可能とし、合理的に介入することを可能にしています。

これにより、流通貨幣量が徳川綱吉が政策を実行してから約1.5倍に膨らみ、経済は好景気となるものの、次第にインフレを引き起こしたため、その後の新井白石らがこの政策を批判し、悪政として評価しています。

しかしながら、徳川綱吉の金銀含有率を下げた信用貨幣を、新井白石らが元の含有量に戻すことで、デフレの状況となり庶民の生活は困窮しています。

金本位制といえる貨幣制度での経済活動が行われていた江戸時代に初めて導入された徳川綱吉の信用貨幣の流通は、時期尚早だったために理解されず、経済が混乱したといえます。

徳川綱吉が関わった経済政策には?

徳川綱吉が関わった経済政策には、それまで農民からの徴税に関与する役人の不正や手心が加えられることへの対策として、勘定吟味役を設置し、公正な税徴収と自作農の輩出を直接管理できる体制を整えています。

勘定吟味役の設置により、自作農の農地所有を承認し、農村の生産能力向上と経済活動の活性化がはかられています。

一方、金貨銀貨の金銀の含有率が一定に定められた貨幣制度では、幕府の財政は悪化し、財源確保のために、金銀の含有率を減らした信用貨幣を流通させることを萩原重秀が進言して実行され、好景気を生み出しています。

しかしながら、信用貨幣の流通が一般には理解されておらず、次第にインフレを引き起こし、のちの新井白石らによって徳川綱吉の悪政とされています。

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