徳川家定に影響を与えたペリー来航

長く続いた江戸幕府において、四隻の黒船で日本に姿を現したペリー来航によって幕府の内外に多大な影響を受けるなか、将軍職に就いていたのは徳川家定の父、徳川家慶でした。

徳川家定は、生まれつき病弱で障害のためか言動がはっきりしないなどの症状がみられたため、人前にでることを嫌ったともいわれています。

徳川家慶は、次期将軍職となる徳川家定を心配し、内々には一橋慶喜を後継者にしようと算段したほどでした。

ペリー来航によって大きく混乱する幕末の状況下で、徳川家慶が病で倒れ、次期将軍となる徳川家定が問題を抱えた状態であった状況などを紹介します。

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ペリー来航の時の江戸幕府の将軍は?

江戸幕府の大きな転換点ともなった浦賀沖へのペリー来航は、嘉永6年6月3日で、12代将軍家慶が亡くなったのが嘉永6年6月22日で、徳川家定の13代将軍就任は嘉永6年10月23日という時系列となっています。

最初のペリー来航のときの江戸幕府の将軍は、病床に伏していた12代将軍徳川家慶で、二回目のペリー来航のときが13代将軍に就任したばかりの徳川家定でした。

最初のペリー来航から3週間ほどで、熱中症と心不全で亡くなったとされる徳川家慶は、黒船来航による日本の行く末を決める功績を何も残せていません。

ただ、徳川家慶が息子の家定を案じて将軍後継者として考えていた徳川慶喜が、江戸幕府の最終的な段階を判断する立場となる下準備をしたともいえます。

ペリー来航による不平等条約締結への将軍の関与

嘉永6年に最初のペリー来航によって開国を迫られた江戸幕府は、翌年のペリーの再来に向けて対応が必要となるなか、徳川家慶が亡くなり徳川家定が将軍に就任します。

生まれつき病弱で人前にでることを避けていた徳川家定が将軍に就任し、江戸幕府が維持してきた鎖国体制の終焉といえる状況への対応は、家定の能力を超えていたと想像され、病状が悪化し、実際の幕政を老中の阿部正弘や堀田正睦らが主導して行われています。

徳川家定の約5年の将軍在位期間は、歴代将軍の中でも比較的短いものでしたが、江戸幕府の体制維持のために継続された鎖国体制の終焉と、明治維新のはじまりとなる徳川慶喜の後継指名が彼の最も大きな功績だったのかもしれません。

ペリー来航によって将軍に就任した徳川家定は、その状況が病状を悪化させ、35歳という若さで人生を閉じています。

ペリー来航に実質的な関与ができなかった将軍

3代将軍徳川家光によって確立していた江戸幕府による鎖国体制は、嘉永6年のペリー来航によって、幕府の内外に混乱をもたらします。

ペリー来航のときの12代将軍徳川家慶は病床にあり、その3週間後には亡くなっているため、ペリーが求める開国要求に対する対応には、老中の阿部正弘と堀田正睦らが主導してあたっており、家慶の後を引き継いだ徳川家定の将軍としての実務は形骸化されています。

ペリーの要求に応じて締結された不平等条約によって、長く続いた江戸幕府の鎖国体制は終焉を迎え、徳川家定もペリー来航による心労が重なり35歳の若さで亡くなっています。

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