徳川家継の江戸幕府での政治

江戸幕府の第6代将軍徳川家宣には、家千代、大五郎、虎吉、そして家継の四人の男の子と豊姫という女の子がいました。

将軍職継承候補となる家千代が生後2ヶ月で、大五郎も三歳を迎える前に、そして三男の虎吉も早世したため、徳川家継のみが将軍候補として生存します。

徳川家宣は、家継が3歳の時に病に倒れたため、側近の新井白石と間部詮房に、次期将軍を尾張の徳川吉通にするように指示しています。

しかしながら、家宣の遺言とは異なり、側近たちの思惑により徳川家継が第7代将軍に推され、家宣の遺志を継いで幕府政治を行なっています。

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徳川家継が江戸幕府で行った政治は?

徳川家宣の病死により、将軍職候補となった4歳の徳川家継を、新井白石が家宣の遺言とは違う形で、幕閣を説得して第7代将軍に就任させています。

「徳川實記」の記述には、徳川家継が幼いながらも利発で心優しい少年であったことが記されており、元々は学者だった新井白石によって帝王学を享受されています。

現代でいえば、幼稚園児程度の年齢の徳川家継がいくら優秀だったとしても、実際の幕府政治を司ることは難しく、新井白石や間部詮房を中心とした側近が主導して、家継の追認を受ける側近政治が行われていたと考えられます。

徳川家継の父である家宣が手がけた「正徳の治」とよばれる政治改革を引き継ぐ形となった家継が、新井白石と間部詮房の二人の実働を追認したとされています。

徳川家継が受け継いだ「正徳の治」とは?

徳川家継の政治を主導したのは、側近にいた間部詮房であり、帝王学を教えていたのが、新井白石だったとされています。

徳川家継の最も近くにいた間部詮房は当時48歳であり、息子と父親という関係に近い年齢であり、家継も間部に対して父親のような感情を抱いていたと想像できます。

徳川家継が行なったとされる正徳の治は、現実には新井白石によって主導され、5代将軍徳川綱吉の時代に発行された金の含有量の低い元禄小判によるインフレを抑えるために、金の量を増やした正徳小判を発行して解消をはかりますが、逆にデフレを引き起こしてしまいます。

また、綱吉の時代に廃止状態となった勘定吟味役を復活させて、幕府役人の汚職や不正の監視や年貢の量を増やそうとしています。

徳川家継の時代の政治は、実際には父家宣と新井白石の正徳の治の継続と白石による実働でしたが、財政再建などの功績は残せていません。

江戸幕府での最年少の将軍で早世した徳川家継

7代将軍徳川家継が4歳で擁立されたのには、家継の三人の兄たちの早生と父家宣の病死に伴い、将軍職継承順位の理由から、側近である新井白石が幕閣へ働きかけたためです。

幼少の徳川家継を推した新井白石が帝王学を教え、間部詮房が側近として政治の実務的なことをこなして、家継の追認を受ける形をとる側近政治が行われています。

徳川家継は、わずか8歳であっけなく人生を閉じており、封建制度の中で大人たちの都合に翻弄された短い人生だったといえ、行った政治も家継ではなく側近の意思が主張され、吉宗が将軍となると人も法令も修正が加えられています。

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