徳川家康の死因は?真田幸村の関わりは?

江戸幕府を開き初代将軍となった徳川家康は、「長命こそ勝ち残りの源」と語り、健康オタクのように一汁一菜の質素な食事を続け、75歳という長寿でした。

徳川家康が残した二つの辞世の句、「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」と、「先にゆき 後に残るも 同じ事 連れて行ぬを 何とぞ思う」からは、人生を生き抜いたという思いが込められています。

長生きをすることが人生の勝者となる信条を貫いた徳川家康が、鯛の天ぷらを食べて倒れ、それが原因で亡くなったといわれるのには、不自然さが感じられます。

徳川家康の死因といわれる「天ぷらの食べ過ぎによる死亡説」や「真田幸村による暗殺説」など、徳川実紀から紹介してみます。

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徳川家康の「徳川実紀」に記された病状から推測される死因は?

徳川家康の死因として最も有名な説は、天ぷらの食べ過ぎといわれるのには、鯛の天ぷらを食べて倒れたためですが、亡くなるまでに3ヶ月弱の期間があります。

天ぷらを食べて体調を崩したことは事実のようですが、「徳川実紀」にあるどんどん痩せて、吐血や黒色の便がみられ、腹部には触診で確認できるほどのしこりがあったという家康の状態からは、胃がんの症状がみられ、進行した病状に天ぷらが影響したと考えられます。

徳川家康の時代には、天ぷら料理は高級料理であり、質素な一汁一菜の食事を心がけた家康でしたが、若い頃に食べられなかった反動だったのか油物を好んだともいわれ、胃がんの進行した胃腸の状態に、油物を食べたために体調を壊したために天ぷらの死亡説が有名になったと推測されます。

徳川家康の病気以外の死因には?真田幸村による暗殺は?

織田信長の本能寺の変で遺骸が発見されなかったことでの生存説同様、徳川初代将軍となった徳川家康の死因にも、いくつかの説があげられてきました。

最近の歴史研究で徳川家康の死因については、前述のように胃がんの進行によるものとされていますが、これまでには、真田幸村による暗殺説や関ヶ原の戦いでの戦士といった死因も考えられていました。

真田幸村による暗殺説には、大坂夏の陣で戦死したとされる真田幸村の生存説と、戦国武将に多く存在した影武者が、徳川家康にも存在したという前提となった創作と考えられます。

真田幸村の暗殺説と徳川家康の影武者には、堺の南宗寺にある「家康公の墓」の存在が理由付けできますが、残された史料や史実の時系列的な検証からすれば、現在では創作と考えられ、徳川家康の死因は病死だと考えられます。

徳川家康の死因と真田幸村の関わりは?

75歳という長寿を全うした徳川家康の死因は、「徳川実紀」に記された家康の体調の状況から、胃がんなどの消化器系の癌であったと考えられ、一般的にいわれる天ぷらが死因とは考えにくいと思われます。

高齢となっても油物を食べた家康が、弱った体調で食べた天ぷらが、病状を悪化させたきっかけかもしれませんが、病状からすれば、胃がんに間違いはないようです。

一説にいわれる真田幸村による暗殺説や関ヶ原の戦いでの戦死は、残された史実や資料に基づく検証からも創作の可能性が高いと考えられます。

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