徳川家光が島原の乱と天草四郎を鎮圧して行なったのは?

寛永14年、1637年に起きた島原の乱は、わずか16歳の天草四郎を大将にした一揆で、徳川家光は10万人の幕府軍を送り込みます。

島原、天草は、キリシタン大名が統治する土地で、日本で最もキリスト教の信仰が盛んな場所でしたが、徳川家康と秀忠によるキリスト教禁教令によって、大名の改易や新たな藩主による取り締まりも厳しく行われています。

キリスト教に対する取り締まりに加え、領民たちは重い年貢にも苦しめられ、追い詰められた領民たちは、宣教師ママコフの予言とわずか16歳の天草四郎の存在をよりどころとして、一揆を起こします。

神の子の再来ともいわれた天草四郎は一揆の総大将として、徳川家光の幕府軍を苦しめ、家光はキリスト教を排除するために鎖国体制を強化しています。

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島原の乱で天草四郎が誕生した背景には?

徳川幕府が誕生した当初、キリスト教の布教活動のために家康と秀忠と面会したイエズス会は、その後の東北での布教活動の許可を受けていますが、幕府はキリスト教への締め付けを強化し、キリスト教禁教令が発布されます。

天草四郎は、豊臣秀吉の重臣として関ヶ原の戦いで斬首された小西行長の遺臣の増田甚兵衛の子供に生まれ、飢饉や重税、キリスト教徒への弾圧に苦しめられる民衆の不満の高まりとともに、宣教師ママコフの予言にある天変地異の際に16歳の天童が現れるという予言を信じる民衆が多くいました。

そんな中、長崎留学から帰った天草四郎が、宣教師ママコフの予言にある天道と信じる信者たちによって、総大将として担ぎ上げ、富岡城を攻め落として3ヶ月も籠城して戦っています。

素人集団と思われた島原の乱での一揆軍でしたが、天草四郎の父増田甚平のような小西行長の遺臣が数多く農民として暮らしていた土地柄もあり、徳川家光が派遣した幕府軍は大勢の死傷者を出して集結することとなります。

一揆軍が徳川家光の予想に反して強かったのは?

江戸で農民一揆が起きた知らせを受けた徳川家光は、簡単に鎮圧できると想定でき、三河国の板倉重昌に総大将とした10万の軍勢を送っています。

3万7千の一揆軍の軍勢に対して10万の制圧軍を派遣した徳川家光に、大将の板倉重昌の討ち死の知らせが届くほど一揆軍は強く、島原の乱での一揆軍は計画的だったと考えられます。

一揆軍の強さには単純な農民による蜂起ではなく、関ヶ原の戦いを経験した小西行長の遺臣たちが多く、城の襲撃から武器の獲得、キリスト教を信じる戦さの経験のない素人に、神々しい姿をした天草四郎を見せることで、その戦いに死を恐れない兵士としたことが強さの秘密だったようです。

島原の乱を制圧した幕府側が確認した記録には、「一揆軍の首は1万を超え、焼死した人も5千人か6千人いたようだ」とされ、幕府軍にも多くの死傷者を出しています。

天草四郎を大将とした島原の乱による徳川家光への影響は?

島原の乱は、キリスト教信者の多かった島原、天草において、飢饉や重い年貢の負担に不満を抱いた庶民に対して、キリスト教に対する弾圧が加わったことで起きた一揆です。

この一揆が、それまでの農民一揆と異質なのは、関ヶ原の戦いを経験した小西行長の遺臣たちが農民となってその戦いを主導し、キリスト教信者にとって天童と信じられた天草四郎を大将としたことで、信仰心を背景とした死を恐れない農民兵たちが3万7千といわれる軍勢を構成し、徳川家光の派遣した10万の軍勢を苦しめています。

キリスト教徒による一揆に手こずった徳川家光は、その後の鎖国体制構築において、キリスト教の扱いに厳しさを増しています。

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