徳川家治が行なった政治とは?政策は?

「小便公方」と揶揄された徳川家重の息子として生まれた徳川家治は、障害のため発する言葉が不明瞭だった家重に代わり祖父である8代将軍吉宗に帝王学を教えられています。

父家重の跡を継いで将軍職を継承した徳川家治は、家重の遺言に従って田沼意次を側用人とし、老中松平武元らと政治をつかさどっています。

祖父にあたる8代将軍吉宗が、障害を抱えた息子である家重の代わりに孫である家治に期待をし、将軍としての心得を教えたためか、徳川家治が将軍職を継承すると重用した家臣たちの政策案に対して「許可を出す」といった形態での政治を行なっています。

そのため、徳川家治が行なったとされる政治や政策の多くは、田沼意次によって考えられたものとなっています。

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徳川家治が見出した田沼意次は?

紀州藩士から旗本となった田沼意行の長男として生まれた田沼意次は、9代将軍となる徳川家重の西丸小姓に抜擢されて父の跡を受け継ぎ、その後家重の信任により加増され大名に取り立てられています。

徳川家重の後を継承した徳川家治の信任も厚かった田沼意次は、老中松平武元の後を継いで、老中に就任しています。

老中田沼意次の政策は、商業を重視した政策といえる重商主義であったため、商売を行うために加入が必要となる株仲間と冥加金の存在が、賄賂政治も生みだします。

徳川家治の時代には貨幣統一がなされておらず、明和五匁銀や南鐐二朱銀などの銀貨を鋳造し、流通貨幣の統合をはかり、印旛沼を陸地化する新田開発や蝦夷地の開発といった公共工事を試みていますが、これらの開発は実現されていません。

徳川家治の行なった政治とは?

徳川家重から将軍職を継承した徳川家治は、前述のように実質的な幕政政策案を老中に取り立てた田沼意次の案を取り上げて、許可を与えて政治を行なっています。

有能な部下と認めた田沼意次や老中松平武元とともに政治を行なっていた徳川家治が、松平武元の死に伴いやる気を無くし、趣味の将棋に没頭したため、無能といった評価もなされますが、「有能な部下に仕事を任せて決断だけをした」徳川家治の政治手法は、吉宗から受けた教育の成果だったかもしれず、無能ではできないと考えられます。

徳川家治の時代の政治は、田沼意次による政策と重なり、最初のうちは米の価格が下落傾向で、農民や商人からの徴税額の増加により、幕府の財政も潤いますが、天明の飢饉による大凶作や浅間山の噴火によって米の価格が跳ね上がることで百姓一揆などが頻発します。

しかも、株仲間の商売には、商人から幕府への賄賂が横行するようになり、次第に田沼意次に対する庶民の人気が落ち、世直しの空気が蔓延し、田沼意次の失脚につながります。

徳川吉宗の期待を受けた徳川家治の政治手法

8代将軍徳川吉宗の孫として生まれた徳川家治は、家治の父家重が生まれながらの障害を抱えていたために、発する言葉が不明瞭で、頻尿などの脳性麻痺の症状があり、吉宗の期待を一身に受けています。

徳川吉宗が、家治が将軍になるために必要な帝王学を家重に代わって教えたとされ、徳川家治の将軍職就任後の政治手法は「有能な部下に仕事を任せて判断をする」といったものでした。

そのため、徳川家治の政治は、老中に重用した田沼意次が行なった政治と重なり、政策案も田沼が発案したものと考えられます。

田沼意次の重商主義による経済政策は、商業による経済活性化の効果の反面、賄賂政治を生み出した側面も強く、その点により田沼が失脚することになります。

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