徳川慶喜は江戸城の無血開城でどうなった?

徳川慶喜は、大政奉還により尊王攘夷運動の高まりによる武力倒幕勢力と幕府軍との衝突を回避し、将軍職や官職、さらに領地を返納するという辞官納地の処分も受け入れます。

武力討伐派にとっては、江戸幕府を武力討伐する大義名分をなくしたため、西郷隆盛の策で庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ちをさせ、幕臣達の怒りを掻き立てます。

これにより、徳川慶喜は戊辰戦争の始まりとなる鳥羽伏見の戦いに出陣することとなり、倒幕派の西郷隆盛や大久保利通も朝廷からの勅命を受けた正規軍として討伐に乗り出します。

鳥羽伏見の戦いに出陣した徳川慶喜は、朝廷の正規軍となった薩長軍と対峙すると家臣を残したまま、海路江戸へと逃走し、新政府軍は江戸への侵攻をはじめます。

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新政府軍が江戸に侵攻をすすめられたのは?

鳥羽伏見の戦いに出陣して家臣を鼓舞しておきながら、徳川慶喜は錦の御旗を掲げた朝廷の正規軍となった薩長軍を目の前にして、朝敵となることを拒否して江戸に逃走したため、新政府軍が徳川慶喜の追討を大義名分とした江戸城総攻撃が進行します。

新政府軍と旧幕府軍による江戸での全面戦争となれば、江戸の町全土が焦土化し、当時150万人といわれる庶民への影響も避けられず、イギリスやフランスといった外国勢力の動向も懸念されます。

錦の御旗を掲げた薩長の軍勢が、江戸に向けて進行する中、江戸での全面戦争を回避すべく、幕府側から山岡鉄舟が勝海舟の書状を携えて駿府の西郷隆盛との会談に臨んでいます。

西郷隆盛は山岡鉄舟に、徳川慶喜の身柄を備前藩に預け、江戸城を明け渡すこと、武器と軍艦のすべての引き渡し、江戸城内の家臣の向島での謹慎、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物の調査と処罰、暴発した人間の鎮圧に官軍があたるといった内容を要求し、幕府側の無血開城の要求とはかけ離れたものでした。

江戸総攻撃の直前に決断された無血開城には?

西郷隆盛と山岡鉄舟との江戸総攻撃前の事前会談を受けた勝海舟は、イギリス公使パークスと直接会って新政府への圧力をかけさせ、フランスとの折衝も行うといった準備を整えます。

しかも、勝海舟は新政府軍が江戸を攻撃してきた場合には、攻撃を受ける前に江戸城と江戸の町に火を放ち、敵の進軍を防ぐと共に焦土と化す計画も立てており、庶民を海上から千葉へ避難させる計画まで準備していたといわれます。

江戸総攻撃が明示された3月15日の直前に二度行われた西郷隆盛と勝海舟との会談は、一度目の会談で徳川慶喜の処遇に関する双方の主張が提示されただけで、二度目に会談で江戸の無血開城が西郷隆盛の一存で決したとされます。

新政府軍の江戸城への総攻撃を目前にして、西郷隆盛の一存で無血開城が決定された裏には、イギリス公使パークスの圧力や、西郷の勝海舟への信頼が根底にあったと考えられ、江戸の庶民への混乱の影響が両者に共通した認識とされた結果と思われます。

徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いから逃走したのち、江戸城の無血開城が決断されるまで、上野寛永寺に自ら謹慎生活を決め込み、新政府への反逆行為をしないことを示しており、無血開城への功績はありません。

徳川慶喜の大政奉還という英断は、戊辰戦争の勃発で?

徳川慶喜の大政奉還は、それまで高まっていた尊王攘夷運動による武力倒幕派と幕府軍の衝突を避ける効果が期待されたものの、戊辰戦争の始まりともいえる鳥羽伏見の戦いに出陣したことで、江戸城下での全面戦争の危機を引き起こしています。

江戸の町が焦土と化すことを避けるために、幕府側の勝海舟はイギリスやフランスといった外国勢力を利用しながら、新政府軍の西郷隆盛との会談に備え、わずか二回の会談で江戸城の無血開城と徳川慶喜の命に関わる処分を避ける結果を導き出しています。

江戸城の無血開城により、徳川家による政治支配も終わり、徳川慶喜は故郷である駿府(現在の静岡県)での隠居生活となっています。

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